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はやし浩司
【43】親と先生の信頼関係が壊れるとき
 
●先生の悪口はタブー

 子どもに「内緒よ」「先生には話してはダメよ」と言うのは、「先生に話しなさい」と言うのと同じ。子どもは先生の前では、絶対に隠しごとができない。英語の格言にも、『子どもは家の中のことを、通りで話す』というのがある。先生は先生で、この種の話には敏感に反応する。だいたいにおいて、親が子どもと接する時間よりも、先生が子どもと接する時間のほうが長い。だから、子どもの前では、学校の批判や先生の悪口は、タブー中のタブー。言えば言ったで、必ずそれは先生に伝わる。それだけではない。以後、子どもは先生の指導に従わなくなる。

●先生とて生身の人間

 ……というようなことは、以前どこかの本にも書いた。ここではその次を書く。一度、親と教師の信頼関係が崩れると、先生自身は、急速にやる気をなくす。一般の人は学校の先生を、神様か牧師のように思っているかもしれない。が、先生とて生身の人間。やる気をなくしたら、その影響は、必ず子どもに及ぶ。教育というのは、手をかけようと思えば、いくらでも手をかけられる。しかし手を抜こうと思えば、いくらでも抜ける。それこそプリント学習だけですまそうと思えば、それもできる。プリント学習ほど、教える者にとって楽な教育はない。ここが教育のこわいところだが、親にはそれがわからない。一方で先生の悪口を言いながら、「うちの子のめんどうを、しっかりみろ」は、ない。

 たとえばこんなことを言う子ども(小二男児)がいた。「三年になっても、今の先生のままだったら、校長先生に言って、先生を変えてもらうって、ママが言っていた」と。私が「どうして?」と聞くと、「だって今の先生は、教え方がヘタクソだもん」と。もしあなたが先生で、子どもがそう話しているのを聞いたら、どう感ずるだろうか。あなたはそれでも、怒りや悔しさを乗り越えて、教育に専念できるだろうか。

●先生との信頼関係が子どもを伸ばす

 日本では、勉強を教えるのが教育ということになっている。どこかに「学歴」を意識したものだ。が、大切なのは、人間関係だ。この人間関係こそが、真の教育なのだ。J君は、小学生のとき、ブラスバンド部に入り、そこで指導をしてくれた先生から、大きな影響を受けた。E君は、中学生のとき、ペットボトルで二段式のロケットを作って、市長賞を受賞した。やはりそのとき指導してくれた先生から、大きな影響を受けた。J君は、高校生になったとき、ある電気メーカーの主催する作曲コンクールで全国大会に出場したし、E君は今、宇宙工学をめざして、今、その講座のある大学に通っている。もしJ君やE君が、これらのよい先生にめぐりあわなければ、今の彼らはない。教育というのは、そういうものだ。では、どうするか。

●「よい先生」をクチグセに!

 子どもの前では、「あなたの先生はすばらしい」「よい先生だ」だけを繰り返す。子どもが悪口を言っても、「それはあなたたちが悪いからでしょう」とたしなめる。そういう親の姿勢が先生に伝わったとき、先生もやる気を出す。信頼には信頼でこたえようとする。多少の苦労ならいとわなくなる。仮に先生との間で何か問題が起きたとしても、それは子どもとは関係のない世界で、子どもの知らないところで処理する。子どもに相談するのもタブー。損か得かという言い方はあまり好きではないが、しかしそのほうが子どもにとって得なことは、言うまでもない。

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【44】教師が教師言葉を使うとき

●運動は活発ですが……

 子ども(小二男児)がもらう成績表の通信欄。そこには、こうある。「運動は活発にできました。授業にも集中できるようになりました。一学期は飼育係をし、友だちと協力して動物を育て、思いやる心を学びました。二学期は学習面での飛躍が期待されます」と。

●教師言葉

 この世界には、「教師言葉」というのがある。先生というのは、奥歯にものがはさまったような言い方をする。たとえば能力が遅れている子どもの親には、決して「能力が遅れています」とは言わない。……言えない。言えば、たいへんなことになってしまう。こういうとき先生は、「お宅の子どもは、運動面はすばらしいのですが……(勉強は、さっぱりできない)」「私のほうでも努力してみますが……(家庭で何とかしてほしい)」と言う。あるいは問題のある子どもの親に向かっては、「先生方の間でも、注目されています……(悪い意味で目立つ)」「元気で活発なのはいいのですが……(困り果てている)」「私の力不足です……(もうギブアップしている)」「ほかの父母からの苦情は、私のほうでおさえておきます……(問題児だ)」などと言う。ほかに「静かな指導になじまないようです……(指導が不可能だ)」「女の子に、もう少し人気があってもいいのですが……(嫌われている)」「協調性に欠けるところがあります……(わがままで苦労している)」「ほかの面では問題はないのですが……(学習面では問題あり)」というのもある。

●ほめるときは本音でほめる

 一方、先生というのは、子どもをほめるときには、本音でほめる。先生に、「いい子ですね」と言われたときは、すなおに喜んでよい。先生は、おせじではほめない。おせじを使わなければならない理由そのもがない。裏を返して言うと、もしあなたの子どもが、園や学校の先生にほめられたことがないというのであれば、子どものどこかに問題がないか、それを疑ってみたほうがよい。幼児のばあい、一つの目安として、誕生パーティがある。あなたの子どもが、ほかの子どもの誕生パーティによく招待されるならよし。そうでないなら、かなりの問題のある子どもとみてよい。実際、誰を招待するかを決めるのは親。その親は、自分の子どもや先生から耳にする、日ごろの評判を基準にして、それを決める。

●教師言葉を裏から読むと……

 さて冒頭の通信欄だが、プロはこう読む。「運動は活発にできました……(学習面はだめ)」「授業にも集中できるようになりました……(集中力がなく、問題児である)」「一学期は飼育係をし、友だちと協力して動物を育て……(ひとりでは責任ある行動ができない)」「思いやる心を学びました……(自分勝手でわがままだ)」「二学期は学習面での飛躍が期待されます……(問題を先送りする。家庭で何とかしてほしい)」と。実際、この通知表を受け取った母親は、喜んで私にそれを見せてくれた。先生にほめられたと思ったらしい……?

●親も本音を言えない?

 生々しい話になってしまったが、もともと教育というのは、そういうもの。親と教師の価値観やエゴが、互いに真正面からぶつかり合う。ふつうの世界と違うのは、そこに「子ども」が介在すること。だから本音と建前が、複雑に交錯する。こうした教師言葉は、そういう世界から必然的に生まれた。ある意味でやむをえないものかもしれない。だいたいあなたという「親」だって、先生の前では本音を言わない。……言えない。言えば、たいへんなことになってしまう。それをあなたは、よく知っている。

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ント はやし浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市 金沢大学法文学部卒 はやし浩司 教育評論家 幼児教育評論家 林浩
司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやしひろし 林ひろし 静岡県 浜松市 幼
児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやし浩司・林浩二(司) 林浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐
阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 Hiroshi Hayashi / 1970 IH student/International House / Melbourne Univ.
【45】子どもに生きる意味を教えるとき
 
●高校野球に学ぶこと

 懸命に生きるから、人は美しい。輝く。その価値があるかないかの判断は、あとからすればよい。生きる意味や目的も、そのあとに考えればよい。たとえば高校野球。私たちがなぜあの高校野球に感動するかといえば、そこに子どもたちの懸命さを感ずるからではないのか。たかがボールのゲームと笑ってはいけない。私たちがしている「仕事」だって、意味があるようで、それほどない。「私のしていることは、ボールのゲームとは違う」と自信をもって言える人は、この世の中に一体、どれだけいるだろうか。

●人はなぜ生まれ、そして死ぬのか

 私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、ミュージカルの『ヘアー』を見た。幻想的なミュージカルだった。あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。「♪私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか、(それを知るために)どこへ行けばいいのか」と。それから三〇年あまり。私もこの問題について、ずっと考えてきた。そしてその結果というわけではないが、トルストイの『戦争と平和』の中に、私はその答のヒントを見いだした。

 生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。一方、人生の目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸福になるピエール。そのピエールはこう言う。『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、ただひたすら進むこと。生きること。愛すること。信ずること』(第五編四節)と。つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。もっと言えば、人生の意味などというものは、生きてみなければわからない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母は、こう言っている。『人生はチョコレートの箱のようなもの。食べてみるまで、(その味は)わからないのよ』と。

●懸命に生きることに価値がある

 そこでもう一度、高校野球にもどる。一球一球に全神経を集中させる。投げるピッチャーも、それを迎え撃つバッターも真剣だ。応援団は狂ったように、声援を繰り返す。みんな必死だ。命がけだ。ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、ボールが投げられ、そしてそれが宙を飛ぶ。その直後、カキーンという澄んだ音が、場内にこだまする。一瞬時間が止まる。が、そのあと喜びの歓声と悲しみの絶叫が、同時に場内を埋めつくす……。

 私はそれが人生だと思う。そして無数の人たちの懸命な人生が、これまた複雑にからみあって、人間の社会をつくる。つまりそこに人間の生きる意味がある。いや、あえて言うなら、懸命に生きるからこそ、人生は光を放つ。生きる価値をもつ。言いかえると、そうでない人に、人生の意味はわからない。夢も希望もない。情熱も闘志もない。毎日、ただ流されるまま、その日その日を、無難に過ごしている人には、人生の意味はわからない。さらに言いかえると、「私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」と、子どもたちに問われたとき、私たちが子どもたちに教えることがあるとするなら、懸命に生きる、その生きざまでしかない。あの高校野球で、もし、選手たちが雑談をし、菓子をほおばりながら、適当に試合をしていたら、高校野球としての意味はない。感動もない。見るほうも、つまらない。そういうものはいくら繰り返しても、ただのヒマつぶし。人生もそれと同じ。そういう人生からは、結局は何も生まれない。高校野球は、それを私たちに教えてくれる。

writer/essayist/law student/Japan/born in 1947/武義高校 林こうじ はやしこうじ 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ
 金沢大学法文学部卒 教育評論家 ハローワールド(雑誌)・よくできました(教材) スモッカの知恵の木 ジャックと英語の木 (CAI) 
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【46】子育てのすばらしさを教えられるとき

●子をもって知る至上の愛  
  
 子育てをしていて、すばらしいと思うことが、しばしばある。その一つが、至上の愛を教えられること。ある母親は自分の息子(三歳)が、生死の境をさまよったとき、「私の命はどうなってもいい。息子の命を救ってほしい」と祈ったという。こうした「自分の命すら惜しくない」という至上の愛は、人は、子どもをもってはじめて知る。

●自分の中の命の流れ

 次に子育てをしていると、自分の中に、親の血が流れていることを感ずることがある。「自分の中に父がいる」という思いである。私は夜行列車の窓にうつる自分の顔を見て、そう感じたことがある。その顔が父に似ていたからだ。そして一方、息子たちの姿を見ていると、やはりどこかに父の面影があるのを知って驚くことがある。先日も息子が疲れてソファの上で横になっていたとき、ふとその肩に手をかけた。そこに死んだ父がいるような気がしたからだ。いや、姿、形だけではない。ものの考え方や感じ方もそうだ。私は「私は私」「私の人生は私のものであって、誰のものでもない」と思って生きてきた。しかしその「私」の中に、父がいて、そして祖父がいる。自分の中に大きな、命の流れのようなものがあり、それが、息子たちにも流れているのを、私は知る。つまり子育てをしていると、自分も大きな流れの中にいるのを知る。自分を超えた、いわば生命の流れのようなものだ。

●神の愛と仏の慈悲

 もう一つ。私のような生き方をしている者にとっては、「死」は恐怖以外の何ものでもない。死はすべての自由を奪う。死はどうにもこうにも処理できないものという意味で、「死は不条理なり」とも言う。そういう意味で私は孤独だ。いくら楽しそうに生活していても、いつも孤独がそこにいて、私をあざ笑う。すがれる神や仏がいたら、どんなに気が楽になることか。が、私にはそれができない。しかし子育てをしていると、その孤独感がふとやわらぐことがある。自分の子どものできの悪さを見せつけられるたびに、「許して忘れる」。これを繰り返していると、「人を愛することの深さ」を教えられる。いや、高徳な宗教者や信仰者なら、深い愛を、万人に施すことができるかもしれない。が、私のような凡人にはできない。できないが、子どもに対してならできる。いわば神の愛、仏の慈悲を、たとえミニチュア版であるにせよ、子育ての場で実践できる。それが孤独な心をいやしてくれる。

●神や仏の使者

 たかが子育てと笑うなかれ。親が子どもを育てると、おごるなかれ。子育てとは、子どもを大きくすることだと誤解するなかれ。子育ての中には、ひょっとしたら人間の生きることにまつわる、矛盾や疑問を解く鍵が隠されている。それを知るか知らないかは、その人の問題意識の深さにもよる。が、ほんの少しだけ、自分の心に問いかけてみれば、それでよい。それでわかる。子どもというのは、ただの子どもではない。あなたに命の尊さを教え、愛の深さを教え、そして生きる喜びを教えてくれる。いや、それだけではない。子どもはあなたの命を、未来永劫にわたって、伝えてくれる。つまりあなたに「生きる意味」そのものを教えてくれる。子どもはそういう意味で、まさに神や仏からの使者と言うべきか。いや、あなたがそれに気づいたとき、あなた自身も神や仏からの使者だと知る。そう、何がすばらしいかといって、それを教えられることぐらい、子育てですばらしいことはない。

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【47】親が右脳教育を信奉するとき

●左脳と右脳

 左脳は言語をつかさどり、右脳はイメージをつかさどる(R・W・スペリー)。その右脳をきたえると、たとえば次のようなことができるようになるという(七田眞氏)。@インスピレーション、ひらめき、直感が鋭くなる(波動共振)、A受け取った情報を映像に変えたり、思いどおりの映像を心に描くことができる(直観像化)、B見たものを映像的に、しかも瞬時に記憶することができる(フォトコピー化)、C計算力が速くなり、高度な計算を瞬時にできる(高速自動処理)など。こうした事例は、現場でもしばしば経験する。

●こだわりは能力ではない

たとえば暗算が得意な子どもがいる。頭の中に仮想のそろばんを思い浮かべ、そのそろばんを使って、瞬時に複雑な計算をしてしまう。あるいは速読の得意な子どもがいる。読むというよりは、文字の上をななめに目を走らせているだけ。それだけで本の内容を理解してしまう。
しかし現場では、それがたとえ神業に近いものであっても、「神童」というのは認めない。もう少しわかりやすい例で言えば、一〇〇種類近い自動車の、その一部を見ただけでメーカーや車種を言い当てたとしても、それを能力とは認めない。「こだわり」とみる。たとえば自閉症の子どもがいる。このタイプの子どもは、ある特殊な分野に、ふつうでないこだわりを見せることが知られている。全国の電車の発車時刻を暗記したり、音楽の最初の一小節を聞いただけで、その音楽の題名を言い当てたりするなど。つまりこうしたこだわりが強ければ強いほど、むしろ心のどこかに、別の問題が潜んでいるとみる。

●論理や分析をつかさどるのは左脳

 そこで右脳教育を信奉する人たちは、有名な科学者や芸術家の名前を出し、そうした成果の陰には、発達した右脳があったと説く。しかしこうした科学者や芸術家ほど、一方で、変人というイメージも強い。つまりふつうでないこだわりが、その人をして、並はずれた人物にしたと考えられなくもない。

 言いかえると、右脳が創造性やイメージの世界を支配するとしても、右脳型人間が、あるべき人間の理想像ということにはならない。むしろゆっくりと言葉を積み重ねながら(論理)、他人の心を静かに思いやること(分析)ができる子どものほうが、望ましい子どもということになる。その論理や分析をつかさどるのは、右脳ではなく、左脳である。

●右脳教育は慎重に

 右脳教育が脳のシステムの完成したおとなには、有効な方法であることは、私も認める。しかしだからといって、それを脳のシステムが未発達な子どもに応用するのは、慎重でなければならない。脳にはその年齢に応じた発達段階があり、その段階を経て、論理や分析を学ぶ。右脳ばかりを刺激すればどうなるか? 一つの例として、神戸でおきた『淳君殺害事件』をあげる研究家がいる(福岡T氏ほか)。

●少年Aは直観像素質者

 あの事件を引き起こした少年Aの母親は、こんな手記を残している。いわく、「(息子は)画数の多い難しい漢字も、一度見ただけですぐ書けました」「百人一首を一晩で覚えたら、五〇〇〇円やると言ったら、本当に一晩で百人一首を暗記して、いい成績を取ったこともあります」(「少年A、この子を生んで」文藝春秋)と。

 少年Aは、イメージの世界ばかりが異常にふくらみ、結果として、「幻想や空想と現実の区別がつかなくなってしまった」(同書)ようだ。その少年Aについて、鑑定した専門家は、「(少年Aは)直観像素質者(一瞬見た映像をまるで目の前にあるかのように、鮮明に思い出すことができる能力のある人)であって、(それがこの非行の)一因子を構成している」(同書)という結論をくだしている。

 要はバランスの問題。左脳教育であるにせよ右脳教育であるにせよ、バランスが大切。子どもに与える教育は、いつもそのバランスを考えながらする。


(参考)
●右脳と左脳の働きについて
右脳左脳
●顔やものの、形の認識
●直感的、総合的にものを考える
●想像的、創造的な考え
●音楽や芸術など
●情緒的な感情●話すこと
●言葉の理解
●論理や数学的な考え  
●分析的な考え方
●読む、書く
●計算をする

「脳のしくみ」(日本実業出版社・新井康允氏)より

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【48】子どもの脳が乱舞するとき

●収拾がつかなくなる子ども

 「先生は、サダコかな? それともサカナ! サカナは臭い。それにコワイ、コワイ……、ああ、水だ、水。冷たいぞ。おいしい焼肉だ。鉛筆で刺して、焼いて食べる……」と、話がポンポンと飛ぶ。頭の回転だけは、やたらと速い。まるで頭の中で、イメージが乱舞しているかのよう。動作も一貫性がない。騒々しい。ひょうきん。鉛筆を口にくわえて歩き回ったかと思うと、突然神妙な顔をして、直立! そしてそのままの姿勢で、バタリと倒れる。ゲラゲラと大声で笑う。その間に感情も激しく変化する。目が回るなんていうものではない。まともに接していると、こちらの頭のほうがヘンになる。

 多動性はあるものの、強く制止すれば、一応の「抑え」はきく。小学二、三年になると、症状が急速に収まってくる。集中力もないわけではない。気が向くと、黙々と作業をする。三〇年前にはこのタイプの子どもは、まだ少なかった。が、ここ一〇年、急速にふえた。小一児で、一〇人に二人はいる。今、学級崩壊が問題になっているが、実際このタイプの子どもが、一クラスに数人もいると、それだけで学級運営は難しくなる。あちらを抑えればこちらが騒ぐ。こちらを抑えればあちらが騒ぐ。そんな感じになる。

●崩壊する学級

 「学級指導の困難に直面した経験があるか」との質問に対して、「よくあった」「あった」と答えた先生が、六六%もいる(九八年、大阪教育大学秋葉英則氏調査)。「指導の疲れから、病欠、休職している同僚がいるか」という質問については、一五%が、「一名以上いる」と回答している。そして「授業が始まっても、すぐにノートや教科書を出さない」子どもについては、九〇%以上の先生が、経験している。ほかに「弱いものをいじめる」(七五%)、「友だちをたたく」(六六%)などの友だちへの攻撃、「授業中、立ち歩く」(六六%)、「配布物を破ったり捨てたりする」(五二%)などの授業そのものに対する反発もみられるという(同、調査)。

●「荒れ」から「新しい荒れ」へ

 昔は「荒れ」というと、中学生や高校生の不良生徒たちの攻撃的な行動をいったが、それが最近では、低年齢化すると同時に、様子が変わってきた。「新しい荒れ」とい言葉を使う人もいる。ごくふつうの、それまで何ともなかった子どもが、突然、キレ、攻撃行為に出るなど。多くの教師はこうした子どもたちの変化にとまどい、「子どもがわからなくなった」とこぼす。
日教組が九八年に調査したところによると、「子どもたちが理解しにくい。常識や価値観の差を感ずる」というのが、二〇%近くもあり、以下、「家庭環境や社会の変化により指導が難しい」(一四%)、「子どもたちが自己中心的、耐性がない、自制できない」(一〇%)と続く。そしてその結果として、「教職でのストレスを非常に感ずる先生が、八%、「かなり感ずる」「やや感ずる」という先生が、六〇%(同調査)もいるそうだ。

●原因の一つはイメージ文化?

 こうした学級が崩壊する原因の一つとして、(あくまでも、一つだが……)、私はテレビやゲームをあげる。「荒れる」というだけでは、どうも説明がつかない。家庭にしても、昔のような崩壊家庭は少なくなった。むしろここにあげたように、ごくふつうの、そこそこに恵まれた家庭の子どもが、意味もなく突発的に騒いだり暴れたりする。そして同じような現象が、日本だけではなく、アメリカでも起きている。実際、このタイプの子どもを調べてみると、ほぼ例外なく、乳幼児期に、ごく日常的にテレビやゲームづけになっていたのがわかる。ある母親はこう言った。「テレビを見ているときだけ、静かでした」と。「ゲームをしているときは、話しかけても返事もしませんでした」と言った母親もいた。たとえば最近のアニメは、幼児向けにせよ、動きが速い。速すぎる。しかもその間に、ひっきりなしにコマーシャルが入る。ゲームもそうだ。動きが速い。速すぎる。

●ゲームは右脳ばかり刺激する

 こうした刺激を日常的に与えて、子どもの脳が影響を受けないはずがない。もう少しわかりやすく言えば、子どもはイメージの世界ばかりが刺激され、静かにものを考えられなくなる。その証拠(?)に、このタイプの子どもは、ゆっくりとした調子の紙芝居などを、静かに聞くことができない。浦島太郎の紙芝居をしてみせても、「カメの顔に花が咲いている!」とか、「竜宮城に魚が、おしっこをしている」などと、そのつど勝手なことをしゃべる。一見、発想はおもしろいが、直感的で論理性がない。ちなみにイメージや創造力をつかさどるのは、右脳。分析や論理をつかさどるのは、左脳である(R・W・スペリー)。テレビやゲームは、その右脳ばかりを刺激する。こうした今まで人間が経験したことがない新しい刺激が、子どもの脳に大きな影響を与えていることはじゅうぶん考えられる。その一つが、ここにあげた「脳が乱舞する子ども」ということになる。

 学級崩壊についていろいろ言われているが、一つの仮説として、私はイメージ文化の悪弊をあげる。

(付記)
●ふえる学級崩壊

 学級崩壊については減るどころか、近年、ふえる傾向にある。一九九九年一月になされた日教組と全日本教職員組合の教育研究全国大会では、学級崩壊の深刻な実情が数多く報告されている。「変ぼうする子どもたちを前に、神経をすり減らす教師たちの生々しい告白は、北海道や東北など各地から寄せられ、学級崩壊が大都市だけの問題ではないことが浮き彫りにされた」(中日新聞)と。「もはや教師が一人で抱え込めないほどすそ野は広がっている」とも。
 北海道のある地方都市で、小学一年生七〇名について調査したところ、
 授業中おしゃべりをして教師の話が聞けない……一九人
 教師の指示を行動に移せない       ……一七人
 何も言わず教室の外に出て行く       ……九人、など(同大会)。

●心を病む教師たち

 こうした現状の中で、心を病む教師も少なくない。東京都の調べによると、東京都に在籍する約六万人の教職員のうち、新規に病気休職した人は、九三年度から四年間は毎年二一〇人から二二〇人程度で推移していたが、九七年度は、二六一人。さらに九八年度は三五五人にふえていることがわかった(東京都教育委員会調べ・九九年)。

この病気休職者のうち、精神系疾患者は。九三年度から増加傾向にあることがわかり、九六年度に一時減ったものの、九七年度は急増し、一三五人になったという。この数字は全休職者の約五二%にあたる。(全国データでは、九七年度は休職者が四一七一人で、精神系疾患者は、一六一九人。)さらにその精神系疾患者の内訳を調べてみると、うつ病、うつ状態が約半数をしめていたという。原因としては、「同僚や生徒、その保護者などの対人関係のストレスによるものが大きい」(東京都教育委員会)ということである。

●その対策

 現在全国の二一自治体では、学級崩壊が問題化している小学一年クラスについて、クラスを一クラス三〇人程度まで少人数化したり、担任以外にも補助教員を置くなどの対策をとっている(共同通信社まとめ)。また小学六年で、教科担任制を試行する自治体もある。具体的には、小学一、二年について、新潟県と秋田県がいずれも一クラスを三〇人に、香川県では四〇人いるクラスを、二人担任制にし、今後五年間でこの上限を三六人まで引きさげる予定だという。福島、群馬、静岡、島根の各県などでは、小一でクラスが三〇〜三六人のばあいでも、もう一人教員を配置している。さらに山口県は、「中学への円滑な接続を図る」として、一部の小学校では、六年に、国語、算数、理科、社会の四教科に、教科担任制を試験的に導入している。大分県では、中学一年と三年の英語の授業を、一クラス二〇人程度で実施している(二〇〇一年度調べ)。

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【49】暴力番組を考えるとき
  
●まき散らされたゴミ

 ある朝、清掃した海辺に一台のトラックがやってきた。そしてそのトラックが、あたり一面にゴミをまき散らした……。

 『バトル・ロワイヤル』という映画が封切られたとき、私はそんな印象をもった。どこかの島で、生徒どうしが殺しあうという映画である。これに対して映倫は、「R15指定」、つまり、一五歳未満の子どもの入場を規制した。が、主演のB氏は、「入り口でチン毛検査でもするのか」(テレビ報道)とかみついた。監督のF氏も、「戦前の軍部以下だ」「表現の自由への干渉」(週刊誌)と抗議した。しかし本当にそうか?

 アメリカでは暴力性の強い映画や番組、性的描写の露骨な映画や番組については、民間団体による自主規制を行っている。

【G】   一般映画
【PG】  両親の指導で見る映画
【PG13】一三歳以下には不適切な映画で、両親の指導で見る映画
【R】   一七歳以下は、おとなか保護者が同伴で見る映画
【NC17】一七歳以下は、見るのが禁止されている映画、と。

 アメリカでは、こうした規制が一九六八年から始まっている。が、この日本では野放し。先日もビデオショップに行ったら、こんな会話をしている親子がいた。
子(小三くらいの男児)「お母さん、これ見てもいい?」、母「お母さんは見ないからね」、子「ううん、ぼく一人でみるから……」、母「……」と。見ると、殺人をテーマにしたホラー映画だった。

●野放しの暴力ゲーム

 映画だけではない。あるパソコンゲームのカタログにはこうあった。「アメリカで発売禁止のソフトが、いよいよ日本に上陸!」(SF社)と。銃器を使って、逃げまどう住人を、見境なく撃ち殺すというゲームである。

 もちろんこうした審査を、国がすることは許されない。民間団体がしなければならない。が、そのため強制力はない。つまりそれに従うかどうかは、そのまた先にある、一般の人の理性と良識ということになる。が、この日本では、これがどうもあやしい。映倫の自主規制はことごとく空洞化している。言いかえると、日本にはそれを支えるだけの周囲文化が、まだ育っていない。先のB氏のような人が、フランス政府や東京都から、日本や東京都を代表する「文化人」として、表彰されている!

 海辺に散乱するゴミ。しかしそれも遠くから見ると、砂浜に咲いた花のように見える。そういうものを見て、今の子どもたちは、「美しい」と言う。しかし……、果たして……?

(参考)

●テレビづけの子どもたち

「ファミリス」の調査によれば、小学三、四年生で四五・七%の子どもが、また小学五、六年生で五九・三%の子どもが、それぞれ毎日二時間以上もテレビをみているという。さらに小学三、四年生で七一%の子どもが、また小学五、六年生で八三・三%の子どもが、それぞれ毎日一時間以上もテレビゲームをしているという(静岡県内一〇〇名の児童について調査・二〇〇一年)。さらに二時間以上テレビゲームをしている子どもも、三、四年生で一九・三%、五、六年生で四一・七%! これらのデータから、約六〜七割前後の子どもが、毎日三時間程度、テレビを見たり、テレビゲームをしていることがわかる。

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【50】思考と情報を混同するとき
 
●人間は考えるアシである

パスカルは、『人間は考えるアシである』(パンセ)と言った。『思考が人間の偉大さをなす』とも。よく誤解されるが、「考える」ということと、頭の中の情報を加工して、外に出すというのは、別のことである。たとえばこんな会話。

A「昼に何を食べる?」、B「スパゲティはどう?」、A「いいね。どこの店にする?」、B「今度できた、角の店はどう?」、A「ああ、あそこか。そう言えば、誰かもあの店のスパゲティはおいしいと話していたな」と。

 この中でAとBは、一見考えてものをしゃべっているようにみえるが、その実、この二人は何も考えていない。脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話として外に取り出しているにすぎない。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。たとえば一人の園児が掛け算の九九を、ペラペラと言ったとする。しかしだからといって、その園児は頭がよいということにはならない。算数ができるということにはならない。

●考えることには苦痛がともなう

 考えるということには、ある種の苦痛がともなう。そのためたいていの人は、無意識のうちにも、考えることを避けようとする。できるなら考えないですまそうとする。中には考えることを他人に任せてしまう人がいる。あるカルト教団に属する信者と、こんな会話をしたことがある。私が「あなたは指導者の話を、少しは疑ってみてはどうですか」と言ったときのこと。その人はこう言った。「C先生は、何万冊もの本を読んでおられる。まちがいは、ない」と。

●人間は思考するから人間

 人間は、考えるから人間である。懸命に考えること自体に意味がある。デカルトも、『われ思う、ゆえにわれあり』(方法序説)という有名な言葉を残している。正しいとか、まちがっているとかいう判断は、それをすること自体、まちがっている。こんなことがあった。ある朝幼稚園へ行くと、一人の園児が、わき目もふらずに穴を掘っていた。「何をしているの?」と声をかけると、「石の赤ちゃんをさがしている」と。その子どもは、石は土の中から生まれるものだと思っていた。おとなから見れば、幼稚な行為かもしれないが、その子どもは子どもなりに、懸命に考えて、そうしていた。つまりそれこそが、パスカルのいう「人間の偉大さ」なのである。

●知識と思考は別のもの

 多くの親たちは、知識と思考を混同している。混同したまま、子どもに知識を身につけさせることが教育だと誤解している。「ほら算数教室」「ほら英語教室」と。それがムダだとは思わないが、しかしこういう教育観は、一方でもっと大切なものを犠牲にしてしまう。かえって子どもから考えるという習慣を奪ってしまう。もっと言えば、賢い子どもというのは、自分で考える力のある子どもをいう。いくら知識があっても、自分で考える力のない子どもは、賢い子どもとは言わない。頭のよし悪しも関係ない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母はこう言っている。「バカなことをする人のことを、バカというのよ。(頭じゃないのよ)」と。ここをまちがえると、教育の柱そのものがゆがんでくる。私はそれを心配する。

(付記)

●日本の教育の最大の欠陥は、子どもたちに考えさせないこと。明治の昔から、「詰め込み教育」が基本になっている。さらにそのルーツと言えば、寺子屋教育であり、各宗派の本山教育である。つまり日本の教育は、徹底した上意下達方式のもと、知識を一方的に詰め込み、画一的な子どもをつくるのが基本になっている。もっと言えば「従順でもの言わぬ民」づくりが基本になっている。戦後、日本の教育は大きく変わったとされるが、その流れは今もそれほど変わっていない。日本人の多くは、そういうのが教育であると思い込まされているが、それこそ世界の非常識。ロンドン大学の森嶋通夫名誉教授も、「日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育である。自分で考え、自分で判断する訓練がもっとも欠如している。自分で考え、横並びでない自己判断のできる人間を育てなければ、二〇五〇年の日本は本当にダメになる」(「コウとうけん」・九八年)と警告している。

●低俗化する夜の番組

 夜のバラエティ番組を見ていると、司会者たちがペラペラと調子のよいことをしゃべっているのがわかる。しかし彼らもまた、脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話として外に取り出しているにすぎない。一見考えているように見えるが、やはりその実、何も考えていない。思考というのは、本文にも書いたように、それ自体、ある種の苦痛がともなう。人によっては本当に頭が痛くなることもある。また考えたからといって、結論や答が出るとは限らない。そのため考えるだけでイライラしたり、不快になったりする人もいる。だから大半の人は、考えること自体を避けようとする。

 ただ考えるといっても、浅い深いはある。さらに同じことを繰り返して考えるということもある。私のばあいは、文を書くという方法で、できるだけ深く考えるようにしている。また文にして残すという方法で、できるだけ同じことを繰り返し考えないようにしている。私にとって生きるということは、考えること。考えるということは、書くこと。モンテーニュ(フランスの哲学者、一五三三〜九二)も、「『考える』という言葉を聞くが、私は何か書いているときのほか、考えたことはない」(随想録)と書いている。ものを書くということには、そういう意味も含まれる。

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【51】子どもに性教育を語るとき

●性の解放とは偏見からの解放 

 若いころ、いろいろな人の通訳として、全国を回った。その中でもとくに印象に残っているのが、ベッテルグレン女史という女性だった。スウェーデン性教育協会の会長をしていた。そのベッテルグレン女史はこう言った。「フリーセックスとは、自由にセックスをすることではない。フリーセックスとは、性にまつわる偏見や誤解、差別から、男女を解放することだ」「とくに女性であるからという理由だけで、不利益を受けてはならない」と。それからほぼ三〇年。日本もやっとベッテルグレン女史が言ったことを理解できる国になった。

 話は変わるが、先日、女房の友人(四八歳)が私の家に来て、こう言った。「うちのダンナなんか、冷蔵庫から牛乳を出して飲んでも、その牛乳をまた冷蔵庫にしまうことすらしないんだわサ。だから牛乳なんて、すぐ腐ってしまうんだわサ」と。話を聞くと、そのダンナ様は結婚してこのかた、トイレ掃除はおろか、トイレットペーパーすら取り替えたことがないという。私が、「ペーパーがないときはどうするのですか?」と聞くと、「何でも『オーイ』で、すんでしまうわサ」と。

●家事をしない男たち

 国立社会保障人口問題研究所の調査によると、「家事は全然しない」という夫が、まだ五〇%以上もいるという(二〇〇〇年)(※)。年代別の調査ではないのでわからないが、五〇歳以上の男性について言うなら、何か特別な事情のある人を除いて、そのほとんどが家事をしていないとみてよい。この年代の男性は、いまだに「男は仕事、女は家事」という偏見を根強くもっている。男ばかりではない。私も子どものころ台所に立っただけで、よく母から、「男はこんなところへ来るもんじゃない」と叱られた。こうしたものの考え方は今でも残っていて、女性自らが、こうした偏見に手を貸している。「夫が家事をすることには反対」という女性が、二三%もいるという(同調査)! 

 が、その偏見も今、急速に音をたてて崩れ始めている。私が九九年に浜松市内でした調査では、二〇代、三〇代の若い夫婦についてみれば、「家事をよく手伝う」「ときどき手伝う」という夫が、六五%にまでふえている。欧米並みになるのは、時間の問題と言ってもよい。

●男も昔はみんな、女だった?

 実は私も、先に述べたような環境で育ったため、生まれながらにして、「男は……、女は……」というものの考え方を日常的にしていた。高校を卒業するまで洗濯や料理など、したことがない。たとえば私が小学生のころは、男が女と一緒に遊ぶことすら考えられなかった。遊べば遊んだで、「女たらし」とバカにされた。そのせいか私の記憶の中にも、女の子と遊んだ思い出がまったく、ない。が、その後、いろいろな経験を通して、私がまちがっていたことを思い知らされた。その中でも決定的に私を変えたのは、次のような事実を知ったときだ。

つまり人間は男も女も、母親の胎内では一度、皆、女だったという事実だ。このことは何人ものドクターに確かめたが、どのドクターも、「知らなかったのですか?」と笑った。正確には、「妊娠後三か月くらいまでは胎児は皆、女で、それ以後、Y遺伝子をもった胎児は、Y遺伝子の刺激を受けて、睾丸が形成され、女から分化する形で男になっていく。分化しなければ、胎児はそのまま成長し、女として生まれる」(浜松医科大学O氏)ということらしい。このことを女房に話すと、女房は「あなたは単純ね」と笑ったが、以後、女性を見る目が、一八〇度変わった。「ああ、ぼくも昔は女だったのだ」と。と同時に、偏見も誤解も消えた。言いかえると、「男だから」「女だから」という考え方そのものが、まちがっている。「男らしく」「女らしく」という考え方も、まちがっている。ベッテルグレン女史は、それを言った。


※……国立社会保障人口問題研究所の調査によると、「掃除、洗濯、炊事の家事をまったくしない」と答えた夫は、いずれも五〇%以上であったという。

 部屋の掃除をまったくしない夫          ……五六・〇%
 洗濯をまったくしない夫             ……六一・二%
 炊事をまったくしない夫             ……五三・五%
 育児で子どもの食事の世話をまったくしない夫   ……三〇・二%
 育児で子どもを寝かしつけない夫(まったくしない)……三九・三%
 育児で子どものおむつがえをまったくしない夫   ……三四・〇% 
(全国の配偶者のいる女性約一四〇〇〇人について調査・九八年)

●平等には反対?

 これに対して、「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」と答えた女性は、七六・七%いるが、その反面、「反対だ」と答えた女性も二三・三%もいる。男性側の意識改革だけではなく、女性側の意識改革も必要なようだ。ちなみに「結婚後、夫は外で働き、妻は主婦業に専念すべきだ」と答えた女性は、半数以上の五二・三%もいる(同調査)。

 こうした現状の中、夫に不満をもつ妻もふえている。厚生省の国立問題研究所が発表した「第二回、全国家庭動向調査」(一九九八年)によると、「家事、育児で夫に満足している」と答えた妻は、五一・七%しかいない。この数値は、前回一九九三年のときよりも、約一〇ポイントも低くなっている(九三年度は、六〇・六%)。「(夫の家事や育児を)もともと期待していない」と答えた妻も、五二・五%もいた。


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【52】子育てで親が行きづまったとき

●夫婦とはそういうもの
    
 夫がいて、妻がいる。その間に子どもがいる。家族というのはそういうものだが、その夫と妻が愛しあい、信頼しあっているというケースは、さがさなければならないほど、少ない。どの夫婦も日々の生活に追われて、自分の気持ちを確かめる余裕すらない。そう、『子はかすがい』とはよく言ったものだ。「子どものため」と考えて、必死になって家族を守ろうとしている夫婦も多い。仮面といえば仮面だが、夫婦というのはそういうものではないのか。もともと他人の人間が、一つ屋根の下で、一〇年も二〇年も、新婚当時の気持ちのままでいることのほうがおかしい。私の女房なども、「お前は、オレのこと好きか?」と聞くと、「考えたことないから、わからない」と答える。

●人は人、それぞれ

 こう書くと、暗くてゆううつな家族ばかりを想像しがちだが、そうではない。こんな夫婦もいる。先日もある女性(四〇歳)が私の家に遊びに来て、女房の前でこう言った。「バンザーイ、やったわ!」と。話を聞くと、夫が単身赴任で九州へ行くことになったという。ふつうなら夫の単身赴任を悲しむはずだが、その女性は「バンザーイ!」と。また別の女性(三三歳)は、夫婦でも別々の寝室で寝ているという。性生活も数か月に一度あるかないかという程度らしい。しかし「ともに、人生を楽しんでいるわ。それでいいんじゃ、ナ〜イ?」と。明るく屈託がない。要は夫婦に標準はないということ。同じように人生観にも家庭観にも標準はない。人は、人それぞれだし、それぞれの人生を築く。私やあなたのような他人が、それについてとやかく言う必要はないし、また言ってはならない。あなたの立場で言うなら、人がどう思おうが、そんなことは気にしてはいけない。

●問題は親子

 問題は親子だ。私たちはともすれば、理想の親子関係を頭の中にかく。設計図をえがくこともある。それ自体は悪いことではないが、その「像」に縛られるのはよくない。それに縛られれば縛られるほど、「こうでなければならない」とか、「こんなはずはない」とかいう気負いをもつ。この気負いが親を疲れさせる。子どもにとっては重荷になる。不幸にして不幸な家庭に育った人ほど、この気負いが強いから注意する。「よい親子関係を築こう」というあせりが、結局は親子関係をぎくしゃくさせてしまう。そして失敗する。

●レット・イット・ビー(あるがままに……) 

 そこでどうだろう、こう考えては。つまり夫婦であるにせよ、親子であるにせよ、それ自体が「幻想」であるという前提で、考える。もしその中に一部でも、本物があるなら、もうけもの。一部でよい。そう考えれば、気負いも取れる。「夫婦だから……」「親子だから……」と考えると、あなたも疲れるが、家族も疲れる。簡単に言えば、今あるものを、あるがままに受け入れてしまうということ。「愛を感じないから結婚もおしまい」とか、「親子が断絶したから、家庭づくりに失敗した」とか、そんなようにおおげさに考える必要はない。つまるところ夫婦や家族、それに子どもに、あまり期待しないこと。ほどほどのところで、あきらめる。そういうニヒリズムがあなたの心に風穴をあける。そしてそれが、夫婦や家族、親子関係を正常にする。ビートルズもかつて、こう歌ったではないか。「♪レット・イット・ビー(あるがままに……)」と。それはまさに、「智恵の言葉」だ。
 
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住宅) 親意識 親の愛 親離れ 音読と黙読 学習机 学力 学歴信仰 学校はやし浩司 タイプ別育児論 恐怖症 家庭教師 過保護 
過剰行動 考える子ども がんこな子ども 緩慢行動 かん黙児 気うつ症の子ども 気負い 帰宅拒否 気難しい子 虐待 キレる子ども
 虚言(ウソ) 恐怖症 子供の金銭感覚 計算力 ゲーム ケチな子ども 行為障害 心を開かない子ども 個性 こづかい 言葉能力、
読解力 子どもの心 子離れ はやし浩司 タイプ別育児論 子供の才能とこだわり 自慰 自意識 自己嫌悪 自殺 自然教育 自尊心 
【53】教育者が教育カルトにハマるとき

●教育カルト   

 教育の世界にもカルトがある。学歴信仰、学校神話というのもそれだが、一つの教育法を信奉するあまり、ほかの教育法を認めないというのも、それ。教育カルトともいう。この教育カルトにハマった教育者(?)は、「右脳教育」と言いだしたら、明けても暮れても「右脳教育」と言いだす。「S方式」と言いだしたら、「S方式」と言いだす。  親や子どもを黙らすもっとも手っ取り早い方法は、権威をもちだすこと。水戸黄門の葵の紋章を思い浮かべればよい。「控えおろう!」と一喝すれば、皆が頭をさげる。「○×式教育法」などという教育法を口にする人は、たいてい自分を権威づけるために、そうする。宗教だってそうだ。あやしげな新興宗教ほど、釈迦やキリストの名前をもちだす。

 教育には哲学が必要だが、しかし宗教であってはいけない。子どもが皆違うように、その教育法もまた皆違う。教育はもっと流動的なものだ。が、このタイプの教育者にはそれがわからない。わからないまま、自分の教育法が絶対正しいと盲信する。そしてそれを皆に押しつけようとする。これがこわい。

●自分勝手な教育法  

 教育カルトがカルトであるゆえんは、いくつかある。冒頭にあげた排他性や絶対性のほか、小さな世界に閉じこもりながら、それに気づかない自閉性、欠点すらも自己正当化する盲信性など。これがさらに進むと、その教育法を批判する人を、猛烈に排斥するという攻撃性も出てくる。自分が正しいと思うのは、その人の勝手だが、その返す刀で、相手に向って、「あなたはまちがっている」と言う。はたから見れば自分勝手な教育法だが、さらに常識はずれなことをしながら、それにすら気づかなくなってしまうこともある。ある教育団体のパンフには、こうあった。「皆さんも、○×教育法で学んだ子どもたちの、すばらしい演奏に感動なさったことと思います」「この方式が日本の教育を変えます」と。あるいはこんなのもあった。「私たちの方式で学んだ子どもたちが、やがて続々と東大の赤門をくぐることになるでしょう」(ある右脳教育団体のパンフレット)と。自分の教育法だったら、おこがましくて、ここまでは書けない。が、本人はわからない。この盲目性こそがまさに教育カルトの特徴と言ってもよい。

●脳のCPUが狂う?
 
 私たちはいつもどこかで、何らかの形で、そのカルトを信じている。また信ずることによって、「考えること」を省略しようとする。教育についても、「いい高校論」「いい大学論」は、わかりやすい。それを信じていれば、子どもを指導しやすい。進学校や進学塾は、この方法を使う。それはそれとして、一度そのカルトに染まると、それから抜け出ることは容易なことではない。脳のCPU(中央演算装置)そのものが狂う。が、問題は、先にも書いた攻撃性だ。

 一つの価値観が崩壊するということは、心の中に空白ができることを意味する。その空白ができると、たいていの人は混乱状態になる。狂乱状態になる人もいる。だからよけいに抵抗する。ためしに教育カルトを信奉している教育者に、その教育法を批判してみるとよい。「S方式の教育法に疑問をもっている評論家もいますよ」と。その教育者は、あなたの意見に反論するというよりは、狂ったようにそれに抵抗するはずだ。

 結論から言えば、教育カルトをどこかで感じたら、その教育法には近づかないほうがよい。こうした教育カルトは、虎視たんたんと、あなたの心のすき間をねらっている!


叱り方 しつけ 自閉症 受験ノイローゼ 小食 心的外傷後ストレス障害 情緒不安 自立心 集中力 就眠のしつけ 神経質な子ども 
神経症 スキンシップ 巣立ち はやし浩司 タイプ別育児論 すなおな子ども 性教育 先生とのトラブル 善悪 祖父母との同居 大学
教育 体罰 多動児男児の女性化 断絶 チック 長男・二男 直観像素質 溺愛 動機づけ 子供の同性愛 トラブル 仲間はずれ 生
意気な子ども 二番目の子 はやし浩司 タイプ別育児論 伸び悩む子ども 伸びる子ども 発語障害 反抗 反抗期(第一反抗期) 非
行 敏捷(びんしょう)性 ファーバー方式 父性と母性 不登校 ぶりっ子(優等生?) 分離不安 平和教育 勉強が苦手 勉強部屋 ホ
【54】親が子育てで行きづまるとき

●私の子育ては何だったの?

 ある月刊雑誌に、こんな投書が載っていた。

 「思春期の二人の子どもをかかえ、毎日悪戦苦闘しています。幼児期から生き物を愛し、大切にするということを体験を通して教えようと、犬、モルモット、カメ、ザリガニを飼育してきました。庭に果樹や野菜、花もたくさん植え、収穫の喜びも伝えてきました。毎日必ず机に向かい、読み書きする姿も見せてきました。リサイクルして、手作り品や料理もまめにつくって、食卓も部屋も飾ってきました。なのにどうして子どもたちは自己中心的で、頭や体を使うことをめんどうがり、努力もせず、マイペースなのでしょう。旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地理が苦手。息子は出不精。娘は繁華街通いの上、流行を追っかけ、浪費ばかり。二人とも『自然』になんて、まるで興味なし。しつけにはきびしい我が家の子育てに反して、マナーは悪くなるばかり。私の子育ては一体、何だったの? 私はどうしたらいいの? 最近は互いのコミュニケーションもとれない状態。子どもたちとどう接したらいいの?」(K県・五〇歳の女性)と。

●親のエゴに振り回される子どもたち

 多くの親は子育てをしながら、結局は自分のエゴを子どもに押しつけているだけ。こんな相談があった。ある母親からのものだが、こう言った。「うちの子(小三男児)は毎日、通信講座のプリントを三枚学習することにしていますが、二枚までなら何とかやります。が、三枚目になると、時間ばかりかかって、先へ進もうとしません。どうしたらいいでしょうか」と。もう少し深刻な例だと、こんなのがある。これは不登校児をもつ、ある母親からのものだが、こう言った。「昨日は何とか、二時間だけ授業を受けました。が、そのまま保健室へ。何とか給食の時間まで皆と一緒に授業を受けさせたいのですが、どうしたらいいでしょうか」と。

 こうしたケースでは、私は「プリントは二枚で終わればいい」「二時間だけ授業を受けて、今日はがんばったねと子どもをほめて、家へ帰ればいい」と答えるようにしている。仮にこれらの子どもが、プリントを三枚したり、給食まで食べるようになれば、親は、「四枚やらせたい」「午後の授業も受けさせたい」と言うようになる。こういう相談も多い。「何とか、うちの子をC中学へ。それが無理なら、D中学へ」と。そしてその子どもがC中学に合格しそうだとわかってくると、今度は、「何とかB中学へ……」と。要するに親のエゴには際限がないということ。そしてそのつど、子どもはそのエゴに、限りなく振り回される……。

●投書の母親へのアドバイス

 冒頭の投書に話をもどす。「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉に、この私も一瞬ドキッとした。しかし考えてみれば、この母親が子どもにしたことは、すべて親のエゴ。もっとはっきり言えば、ひとりよがりな子育てを押しつけただけ。そのつど子どもの意思や希望を確かめた形跡がどこにもない。親の独善と独断だけが目立つ。「生き物を愛し、大切にするということを体験を通して教えようと、犬、モルモット、カメ、ザリガニを飼育してきました」「旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地理が苦手。息子は出不精」と。この母親のしたことは、何とかプリントを三枚させようとしたあの母親と、どこも違いはしない。あるいはどこが違うというのか。

●親の役目

 親には三つの役目がある。@よきガイドとしての親、Aよき保護者としての親、そしてBよき友としての親の三つの役目である。この母親はすばらしいガイドであり、保護者だったかもしれないが、Bの「よき友」としての視点がどこにもない。とくに気になるのは、「しつけにはきびしい我が家の子育て」というところ。この母親が見せた「我が家」と、子どもたちが感じたであろう「我が家」の間には、大きなギャップを感ずる。はたしてその「我が家」は、子どもたちにとって、居心地のよい「我が家」であったのかどうか。あるいは子どもたちはそういう「我が家」を望んでいたのかどうか。結局はこの一点に、問題のすべてが集約される。が、もう一つ問題が残る。それはこの段階になっても、その母親自身が、まだ自分のエゴに気づいていないということ。いまだに「私は正しいことをした」という幻想にしがみついている! 「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉が、それを表している。

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【55】子どもに生きる意味を教えるとき

●楽な子育てはない 

 問題のない子どもはいない。だから楽な子育てというのもない。(財)日本女子社会教育会の調査によると、七二%の母親が「子どものことで、イライラする」と答えている(九五年)。要は、そういう前提で子育てを考えればよい。もともと子育てというのは、そういうもの。以前読んだヨーロッパの童話に、こんなのがある。『不思議な糸巻き』という物語だった。主人公の名前などは忘れたので、私が勝手につけた。内容も多少違うかもしれない。「苦労」を考える、一つのヒントになればよいと考えている。

●不思議な糸巻き

 ヨハンという少年が、父親の仕事の手伝いをするのがいやで、森に逃げてきた。うしろのほうから父親が、「ヨハン、まき割りの仕事を手伝ってくれ」と叫んでいるのが聞こえた。ヨハンが木の陰に隠れていると、魔女が現れて、こう言った。「あなたに不思議な糸巻きをあげよう。いやなことがあったら、この糸巻きの糸を引くといい。引いた分だけ、時間が過ぎる」と。

 それからというもの、ヨハンはいやなことがあるたびに、その糸巻きの糸を引いた。父親に仕事を言いつけられたとき。学校でいやなことがあったとき。が、ある日、ヨハンはこう思った。「はやくおとなになって、ハンナと結婚したい」と。ヨハンはハンナが好きだった。そこでヨハンは、糸をどんどん引いた。

 ……気がついてみると、ヨハンはおとなになり、ハンナと結婚していた。しばらくは平穏な生活が続いたが、やがて二人の間に男の子が生まれた。が、ヨハンは、子育てが苦手だった。そこでヨハンは、「子どもを早くおとなにして、自分の仕事を手伝わせよう」と考えた。そう考えて、ヨハンはまた、糸をどんどん引いた。気がつくと、子どもはすっかりおとなになっていた。しかし自分の姿を見て、ヨハンは驚いた。ヨハンは老人になってしまっていた。が、それだけではない。ヨハンは自分に思い出が何もないことを知った。

 そこでヨハンは、再びあの森に戻った。力なくとぼとぼと森の中を歩いていると、そこにあの魔女が現れた。ヨハンは魔女にこう言った。「私の人生はあっという間に終わってしまった。私の人生は何だったのか」と。すると魔女は笑ってこう言った。「では、もう一度だけ子ども時代にもどしてあげよう」と。気がつくとヨハンは、またあの子どもになっていた。

 そのときだ。うしろから父親が、「ヨハン、まき割りの仕事を手伝ってくれ」と呼ぶのが聞こえた。ヨハンは明るい声でこう答えた。「お父さん、今、行くよ。今、手伝ってあげるよ」と。

●苦労からドラマが生まれる

 童話とはいえ、この物語には、人生に対する考え方が織り込まれている。いろいろと考えさせられる。つまり……。誰でも苦しみや悲しみ、それにいやなことは、できるだけ避けたい。できれば毎日をのんびりと楽しく暮らしたい。しかしその人生から苦しみや悲しみを取り除いてしまったら、この人生は何と味気なく、つまらないものになってしまうことか。もちろん逃げてもいけない。その分だけ、時間が飛んでしまう。ヨハンは思い出のない自分に気づき、人生そのものをムダにしたことに気づく。

●言うことは楽かもしれないが……

 子育ての最中というのは、本当にたいへんだ。しかしそれも終わってみると、その時代が人生の中で光り輝いているのを知る。無数の苦労が、ひょっとしたらその苦労が大きければ大きいほど、多ければ多いほど、それから報われる喜びも大きい。ドラマもそこから生まれる。……とまあ、こんなことを書くと、「誰にだって言うことぐらいならできる」と叱られそうだ。しかし心のどこかでそう思うことも、時には必要ではないのか。そういう冷めた見方が、あなたの子育てに風を通す。一度、子どもの前でこの童話を、声を出して読んでみてほしい。

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【56】家族の心が犠牲になるとき
 
●子どもの心を忘れる親

 アメリカでは、学校の先生が、親に「お宅の子どもを一年、落第させましょう」と言うと、親はそれに喜んで従う。「喜んで」だ。ウソでも誇張でもない。あるいは自分の子どもの学力が落ちているとわかると、親のほうから学校へ落第を頼みに行くというケースも多い。アメリカの親たちは、「そのほうが子どものためになる」と考える。が、この日本ではそうはいかない。子どもが軽い不登校を起こしただけで、たいていの親は半狂乱になる。先日もある母親から電話でこんな相談があった。何でも学校の先生から、その母親の娘(小二)が、養護学級をすすめられているというのだ。その母親は電話口の向こうで、オイオイと泣き崩れていたが、なぜか? なぜ日本ではそうなのか? 

●明治以来の出世主義

 日本では「立派な社会人」「社会で役立つ人」が、教育の柱になっている。一方、アメリカでは、「よき家庭人」あるいは「よき市民」が、教育の柱になっている。オーストラリアでもそうだ。カナダやフランスでもそうだ。が、日本では明治以来、出世主義がもてはやされ、その一方で、家族がないがしろにされてきた。今でも男たちは「仕事がある」と言えば、すべてが免除される。子どもでも「勉強する」「宿題がある」と言えば、すべてが免除される。

●家事をしない夫たち

 二〇〇〇年に内閣府が調査したところによると、炊事、洗濯、掃除などの家事は、九割近くを妻が担当していることがわかった。家族全体で担当しているのは一〇%程度。夫が担当しているケースは、わずか一%でしかなかったという。子どものしつけや親の世話でも、六割が妻の仕事で、夫が担当しているケースは、三%(たったの三%!)前後にとどまった。その一方で七割以上の人が、「男性の家庭、地域参加をもっと求める必要がある」と考えていることもわかったという。内閣総理府の担当官は、次のようにコメントを述べている。「今の二〇代の男性は比較的家事に参加しているようだが、四〇代、五〇代には、リンゴの皮すらむいたことがない人がいる。男性の意識改革をしないと、社会は変わらない。男性が老後に困らないためにも、積極的に(意識改革の)運動を進めていきたい」(毎日新聞)と(※1)。

 仕事第一主義が悪いわけではないが、その背景には、日本独特の出世主義社会があり、それを支える身分意識がある。そのため日本人はコースからはずれることを、何よりも恐れる。それが冒頭にあげた、アメリカと日本の違いというわけである。言いかえると、この日本では、家族を中心にものを考えるという姿勢が、ほとんど育っていない。たいていの日本人は家族を平気で犠牲にしながら、それにすら気づかないでいる……。

●家族主義

 かたい話になってしまったが、ボームという人が書いた童話に、『オズの魔法使い』というのがある。カンザスの田舎に住むドロシーという女の子が、犬のトトとともに、虹の向こうにあるという「幸福」を求めて冒険するという物話である。あの物語を通して、ドロシーは、幸福というのは、結局は自分の家庭の中にあることを知る。アメリカを代表する物語だが、しかしそれがそのまま欧米人の幸福観の基本になっている。

たとえば少し前、メル・ギブソンが主演する『パトリオット』という映画があった。あの映画では家族のために戦う一人の父親がテーマになっていた。(日本では「パトリオット」を「愛国者」と訳すが、もともと「パトリオット」というのは、ラテン語の「パトリオータ」つまり、「父なる大地を愛する」という意味の単語に由来する。)「家族のためなら、命がけで戦う」というのが、欧米人の共通の理念にもなっている。家族を大切にするということには、そういう意味も含まれる。そしてそれが回りまわって、彼らのいう愛国心(※2)になっている。

●変わる日本人の価値観

 それはさておき、そろそろ私たち日本人も、旧態の価値観を変えるべき時期にきているのではないのか。今のままだと、いつまでたっても「日本異質論」は消えない。が、悲観すべきことばかりではない。九九年の春、文部省がした調査では、「もっとも大切にすべきもの」として、四〇%の日本人が、「家族」をあげた。同じ年の終わり、中日新聞社がした調査では、それが四五%になった。たった一年足らずの間に、五ポイントもふえたことになる。これはまさに、日本人にとっては革命とも言えるべき大変化である。

そこであなたもどうだろう、今日から子どもにはこう言ってみたら。「家族を大切にしよう」「家族は助けあい、理解しあい、励ましあい、教えあい、守りあおう」と。この一言が、あなたの子育てを変え、日本を変え、日本の教育を変える。

※1……これを受けて、文部科学省が中心になって、全国六か所程度で、都道府県県教育委員会を通して、男性の意識改革のモデル事業を委託。成果を全国的に普及させる予定だという(二〇〇一年一一月)。

※2……英語で愛国心は、「patriotism」という。しかしこの単語は、もともと「愛郷心」という意味である。しかし日本では、「国(体制)」を愛することを愛国心という。つまり日本人が考える愛国心と、欧米人が考える愛国心は、その基本において、まったく異質なものであることに注意してほしい。




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