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はやし浩司
【57】子どもの金銭感覚が決まるとき

●結婚式のお金がなかった

 一〇万円のお金が残ったとき、私は女房に聞いた。「このお金で香港へ行きたいか。それとも結婚式をしたいか」と。すると女房は、小さな声でこう言った。「香港へ行きたい……」と。当時の私はほとんど毎週のように、台北や香港へ行っていた。マニラやシンガポールまで足をのばすこともあった。いくつかの会社の翻訳や通訳、それに貿易の仕事を手伝っていた。そこでその仕事の一つに、女房を連れて行くことにした。そんなわけで私たちは結婚式をしていない。……と言うより、そのお金がなかった。

●ホテルで七五三の披露宴

 それから二八年あまり。二〇〇〇年のある昼、テレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込んできた。何でも今では、子どもの七五三の祝いを、ホテルでする親がいるという。豪華な披露宴に、豪華な食事と引き出物。費用は一人あたり、二万円から三万円だという。見るとまだあどけない子どもが、これまた豪華な衣装を身にまとい、結婚式の新郎新婦よろしく、皆の前であいさつをしていた。私と女房はそれを見ながら、言葉を失った。

 その私たち。何かをやり残した思いで、新婚時代を終えた。若いころ女房はよく、「一度でいいから、花嫁衣裳を着てみたい」とこぼした。そこでちょうど私が三〇歳になったとき、あるいは四〇歳になったとき、披露宴だけはしようという話がもちあがった。しかしそのつど身内の親たちの死と重なって、流れてしまった。さすがに四〇歳も半ばを過ぎ、髪の毛に白髪が混じるようになると、女房も結婚式のことは言わなくなった。

●現実感をなくす子ども

 ぜいたくに慣れれば慣れるほど、子どもは「現実感」をなくす。お金や物は、天から降ってくるものだと思うようになる。子ども自身が将来、おとなになってからも、それだけの生活を維持できればよい。が、そうでなければ、苦労するのは、結局は子ども自身ということになる。いや、親だって苦労する。今では、成人式の費用は、たいてい親が出す。女性の晴れ着のばあい、貸衣装でそろえても、一五万円から二〇万円(浜松市内の貸衣装店主の話)。上限はない。さらに社会人になったときの新居の費用、結婚式の費用すらも、親が負担する。七五三の祝宴ですら、ホテルで豪華に催すご時世である。どうしてそのときになって、「自分の費用は自分で払え」と、子どもに言えるだろうか。が、それだけではすまない。

●ストーブは一日中、つけっぱなし 

 現実感をなくした子どもは、「親の苦労」というものがどういうものか、わからなくなる。感謝もしない。「してもらって当然」と考える。ある母親が大阪で学生生活をしている息子のアパートを訪ねてみたときのこと。それほど裕福な家庭ではない。その母親は息子が大学に入学すると同時に、近くのスーパーでパートの仕事を始めた。母親は驚いた。春先だったというが、電気ストーブは一日中、つけっぱなし。携帯電話の電話料も月に三万円近くもかかっていた。「バイクがほしい」と言ったのでお金を送ったのだが、その息子は、三〇万円もするキンキラキンのアメリカンスタイルのバイクを買っていたという。「中古のソフトバイクなら、三〜四万円でありますよ」と私が言うと、その母親は、「あら、ソ〜ウ!」と驚いていた。

●「私なら出席しないわ」

 人は人それぞれだが、ここから先は、私と女房の会話をそのまま書く。私が七五三の様子を見てあきれていると、女房はこう言った。「何かおかしいわ」と。こうも言った。「私なら、あんな披露宴、招待されても行かないわ」と。私は私でこう言った。「幼児のときから、あんなにぜいたくに育てれば、苦労するのは子どもだ」と。「子どもを大切にするということは、子どもを王様にすることではない。金をかけて、楽をさせることではない。親としてやるべきことが違う」と。しかしこれは、結婚式ができなかった私たち夫婦の、ひがみかもしれない。私と女房はその報道を見ながら、何度もため息をついた。

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【58】子どもの心が破壊されるとき
 
●バッタをトカゲのエサに

 A小学校のA先生(小一担当女性)が、こんな話をしてくれた。「一年生のT君が、トカゲをつかまえてきた。そしてビンの中で飼っていた。そこへH君が、生きているバッタをつかまえてきて、トカゲにエサとして与えた。私はそれを見て、ぞっとした」と。

 A先生が、なぜぞっとしたか、あなたはわかるだろうか。それを説明する前に、私にもこんな経験がある。もう二〇年ほど前のことだが、一人の子ども(年長男児)の上着のポケットを見ると、きれいに玉が並んでいた。私はてっきりビーズ玉か何かと思った。が、その直後、背筋が凍りつくのを覚えた。よく見ると、それは虫の頭だった。その子どもは虫をつかまえると、まず虫にポケットのフチを口でかませる。かんだところで、体をひねって頭をちぎる。ビーズ玉だと思ったのは、その虫の頭だった。また別の日。小さなトカゲを草の中に見つけた子ども(年長男児)がいた。まだ子どもの小さなトカゲだった。「あっ、トカゲ!」と叫んだところまではよかったが、その直後、その子どもはトカゲを足で踏んで、そのままつぶしてしまった!

●心が壊れる子どもたち

 原因はいろいろある。貧困(それにともなう家庭騒動)、家庭崩壊(それにともなう愛情不足)、過干渉(子どもの意思を無視して、何でも親が決めてしまう)、過関心(子どもの側からみて息が抜けない家庭環境)など。威圧的(ガミガミと頭ごなしに言う)な家庭環境や、権威主義的(「私は親だから」「あなたは子どもだから」式の問答無用の押しつけ)な子育てが、原因となることもある。要するに、子どもの側から見て、「安らぎを得られない家庭環境」が、その背景にあるとみる。さらに不平や不満、それに心配や不安が日常的に続くと、それが子どもの心を破壊することもある。

イギリスの格言にも、『抑圧は悪魔を生む』というのがある。抑圧的な環境が長く続くと、ものの考え方が悪魔的になることを言ったものだが、このタイプの子どもは、心のバランス感覚をなくすのが知られている。「バランス感覚」というのは、してよいことと悪いことを、静かに判断する能力のことをいう。これがないと、ものの考え方が先鋭化したり、かたよったりするようになる。昔、こう言った高校生がいた。「地球には人間が多すぎる。核兵器か何かで、人口を半分に減らせばいい。そうすれば、ずっと住みやすくなる」と。そういうようなものの考え方をするが、言いかえると、愛情豊かな家庭環境で、心静かに育った子どもは、ほっとするような温もりのある子どもになる。心もやさしくなる。

●無関心、無感動は要注意

 さて冒頭のA先生は、トカゲに驚いたのではない。トカゲを飼っていることに驚いたのでもない。A先生は、生きているバッタをエサとして与えたことに驚いた。A先生はこう言った。「そういう残酷なことが平気でできるということが、信じられませんでした」と。

 このタイプの子どもは、総じて他人に無関心(自分のことにしか興味をもたない)で、無感動(他人の苦しみや悲しみに鈍感)、感情の動き(喜怒哀楽の情)も平坦になる。よく誤解されるが、このタイプの子どもが非行に走りやすいのは、そもそもそういう「芽」があるからではない。非行に対する抵抗力がないからである。悪友に誘われたりすると、そのままスーッと仲間に入ってしまう。ぞっとするようなことをしながら、それにブレーキをかけることができない。だから結果的に、「悪」に染まってしまう。

●心の修復は、四、五歳までに

 そこで一度、あなたの子どもが、どんなものに興味をもち、関心を示すか、観察してみてほしい。子どもらしい動物や乗り物、食べ物や飾りであればよし。しかしそれが、残酷なゲームや、銃や戦争、さらに日常的に乱暴な言葉や行動が目立つというのであれば、家庭教育のあり方をかなり反省したらよい。子どものばあい、「好きな絵をかいてごらん」と言って紙とクレヨンを渡すと、心の中が読める。子どもらしい楽しい絵がかければ、それでよし。しかし心が壊れている子どもは、おとなが見ても、ぞっとするような絵をかく。

 ただし、小学校に入学してからだと、子どもの心を修復するのはたいへん難しい。修復するとしても、四、五歳くらいまで。穏やかで、静かな生活を大切にする。

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ント はやし浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市 金沢大学法文学部卒 はやし浩司 教育評論家 幼児教育評論家 林浩
司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやしひろし 林ひろし 静岡県 浜松市 幼
児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやし浩司・林浩二(司) 林浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐
阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 Hiroshi Hayashi / 1970 IH student/International House / Melbourne Univ.
【59】親が子育てができなくなるとき
 
●親像のない親たち

 「娘を抱いていても、どの程度抱けばいいのか、不安でならない」と訴えた父親がいた。「子どもがそこにいても、どうやってかわいがればいいのか、それがわからない」と訴えた父親もいた。あるいは子どもにまったく無関心な母親や、子どもを育てようという気力そのものがない母親すらいた。また二歳の孫に、ものを投げつけた祖父もいた。このタイプの人は、不幸にして不幸な家庭を経験し、「子育て」というものがどういうものかわかっていない。つまりいわゆる「親像」のない人とみる。

●チンパンジーのアイ

 ところで愛知県の犬山市にある京都大学霊長類研究所には、アイという名前のたいへん頭のよいチンパンジーがいる。人間と会話もできるという。もっとも会話といっても、スイッチを押しながら、会話をするわけだが、そのチンパンジーが九八年の夏、一度妊娠したことがある。が、そのとき研究員の人が心配したのは、妊娠のことではない。「はたしてアイに、子育てができるかどうか」(新聞報道)だった。人工飼育された動物は、ふつう自分では子育てができない。チンパンジーのような、頭のよい動物はなおさらで、中には自分の子どもを見て、逃げ回るのもいるという。いわんや、人間をや。

●子育ては学習によってできる

 子育ては、本能ではなく、学習によってできるようになる。つまり「育てられた」という体験があってはじめて、自分でも子育てができるようになる。しかしその「体験」が、何らかの理由で十分でないと、ここでいう「親像のない親」になる危険性がある。……と言っても、今、これ以上のことを書くのは、この日本ではタブー。いろいろな団体から、猛烈な抗議が殺到する。先日もある新聞で、「離婚家庭の子どもは離婚率が高い」というような記事を書いただけでその翌日、一〇本以上の電話が届いた。「離婚についての偏見を助長する」「離婚家庭の子どもがかわいそう」「離婚家庭の子どもは幸せな結婚はできないのか」など。「離婚家庭を差別する発言で許せない」というのもあった。私は何も離婚が悪いとか、離婚家庭の子どもが不幸になると書いたのではない。離婚が離婚として問題になるのは、それにともなう家庭騒動である。この家庭騒動が子どもに深刻な影響を与える。そのことを主に書いた。たいへんデリケートな問題であることは認めるが、しかし事実は事実として、冷静に見なければならない。

●原因に気づくだけでよい

 これらの問題は、自分の中に潜む「原因」に気づくだけでも、その半分以上は解決したとみるからである。つまり「私にはそういう問題がある」と気づくだけでも、問題の半分は解決したとみる。それに人間は、チンパンジーとも違う。たとえ自分の家庭が不完全であっても、隣や親類の家族を見ながら、自分の中に「親像」をつくることもできる。ある人は早くに父親をなくしたが、叔父を自分の父親にみたてて、父親像を自分の中につくった。また別の人は、ある作家に傾倒して、その作家の作品を通して、やはり自分の父親像をつくった。

●幸福な家庭を築くために

 ……と書いたところで、この問題を、子どもの側から考えてみよう。するとこうなる。もしあなたが、あなたの子どもに将来、心豊かで温かい家庭を築いてほしいと願っているなら、あなたは今、あなたの子どもに、そういう家庭がどういうものであるかを、見せておかねばならない。いや、見せるだけではたりない。しっかりと体にしみこませておく。そういう体験があってはじめて、あなたの子どもは、自分が親になったとき、自然な子育てができるようになる。と言っても、これは口で言うほど、簡単なことではない。頭の中ではわかっていても、なかなかできない。だからこれはあくまでも、子育てをする上での、一つの努力目標と考えてほしい。

(付記)
●なぜアイは子育てができるか

 一般論として、人工飼育された動物は、自分では子育てができない。子育ての「情報」そのものが脳にインプットされていないからである。このことは本文の中に書いたが、そのアイが再び妊娠し、無事出産。そして今、子育てをしているという(二〇〇一年春)。これについて、つまりアイが子育てができる理由について、アイは妊娠したときから、ビデオを見せられたり、ぬいぐるみのチンパンジーを与えられたりして、子育ての練習をしたからだと説明されている(報道)。しかしどうもそうではないようだ。アイは確かに人工飼育されたチンパンジーだが、人工飼育といっても、アイは人間によって、まさに人間の子どもとして育てられている。アイは人工飼育というワクを超えて、子育ての情報をじゅうぶんに与えられている。それが今、アイが、子育てができる本当の理由ではないのか。

(参考)
●虐待について 

 社会福祉法人「子どもの虐待防止センター」の実態調査によると、母親の五人に一人は、「子育てに協力してもらえる人がいない」と感じ、家事や育児の面で夫に不満を感じている母親は、不満のない母親に比べ、「虐待あり」が、三倍になっていることがわかった(有効回答五〇〇人・二〇〇〇年)。
 また東京都精神医学総
合研究所の妹尾栄一氏は、虐待の診断基準を作成し、虐待の度合を数字で示している。妹尾氏は、「食事を与えない」「ふろに入れたり、下着をかえたりしない」などの一七項目を作成し、それぞれについて、「まったくない……〇点」「ときどきある……一点」「しばしばある……二点」の三段階で親の回答を求め、虐待度を調べた。その結果、「虐待あり」が、有効回答(四九四人)のうちの九%、「虐待傾向」が、三〇%、「虐待なし」が、六一%であった。この結果からみると、約四〇%弱の母親が、虐待もしくは虐待に近い行為をしているのがわかる。

 一方、自分の子どもを「気が合わない」と感じている母親は、七%。そしてその大半が何らかの形で虐待していることもわかったという(同、総合研究所調査)。「愛情面で自分の母親とのきずなが弱かった母親ほど、虐待に走る傾向があり、虐待の世代連鎖もうかがえる」とも。

●ふえる虐待

 なお厚生省が全国の児童相談所で調べたところ、母親による児童虐待が、一九九八年までの八年間だけでも、約六倍強にふえていることがわかった。(二〇〇〇年度には、一万七七二五件、前年度の一・五倍。この一〇年間で一六倍。)

 虐待の内訳は、相談、通告を受けた六九三二件のうち、身体的暴行が三六七三件(五三%)でもっとも多く、食事を与えないなどの育児拒否が、二一〇九件(三〇・四%)、差別的、攻撃的言動による心理的虐待が六五〇件など。虐待を与える親は、実父が一九一〇件、実母が三八二一件で、全体の八二・七%。また虐待を受けたのは小学生がもっとも多く、二五三七件。三歳から就学前までが、一八六七件、三歳未満が一二三五件で、全体の八一・三%となっている。
writer/essayist/law student/Japan/born in 1947/武義高校 林こうじ はやしこうじ 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ
 金沢大学法文学部卒 教育評論家 ハローワールド(雑誌)・よくできました(教材) スモッカの知恵の木 ジャックと英語の木 (CAI) 
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【60】仕事で家族が犠牲になるとき

●ルービン報道官の退任 

二〇〇〇年の春、J・ルービン報道官が、国務省を退任した。約三年間、アメリカ国務省のスポークスマンを務めた人である。理由は妻の出産。「長男が生まれたのをきっかけに、退任を決意。当分はロンドンで同居し、主夫業に専念する」(報道)と。

 一方、日本にはこんな話がある。以前、「単身赴任により、子どもを養育する権利を奪われた」と訴えた男性がいた。東京に本社を置くT臓器のK氏(五三歳)だ。いわく「東京から名古屋への異動を命じられた。そのため子どもの一人が不登校になるなど、さまざまな苦痛を受けた」と。単身赴任は、六年間も続いた。

●家族がバラバラにされて、何が仕事か!

 日本では、「仕事がある」と言えば、すべてが免除される。子どもでも、「勉強する」「宿題がある」と言えば、すべてが免除される。仕事第一主義が悪いわけではないが、そのためにゆがめられた部分も多い。今でも妻に向かって、「お前を食わせてやる」「養ってやる」と暴言を吐く夫は、いくらでもいる。その単身赴任について、昔、メルボルン大学の教授が、私にこう聞いた。「日本では単身赴任に対して、法的規制は、何もないのか」と。私が「ない」と答えると、周囲にいた学生までもが、「家族がバラバラにされて、何が仕事か!」と騒いだ。

 さてそのK氏の訴えを棄却して、最高裁第二小法廷は、一九九九年の九月、次のような判決を言いわたした。いわく「単身赴任は社会通念上、甘受すべき程度を著しく超えていない」と。つまり「単身赴任はがまんできる範囲のことだから、がまんせよ」と。もう何をか言わんや、である。

 ルービン報道官の最後の記者会見の席に、妻のアマンポールさんが飛び入りしてこう言った。「あなたはミスターママになるが、おむつを取り替えることができるか」と。それに答えてルービン報道官は、「必要なことは、すべていたします。適切に、ハイ」と答えた。

●落第を喜ぶ親たち

 日本の常識は決して、世界の標準ではない。たとえばこの本のどこかにも書いたが、アメリカでは学校の先生が、親に子どもの落第をすすめると、親はそれに喜んで従う。「喜んで」だ。親はそのほうが子どものためになると判断する。が、日本ではそうではない。軽い不登校を起こしただけで、たいていの親は半狂乱になる。こうした「違い」が積もりに積もって、それがルービン報道官になり、日本の単身赴任になった。言いかえると、日本が世界の標準にたどりつくまでには、まだまだ道は遠い。

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【61】子育てのトゲが心に刺さるとき

●三男からのハガキ   

 富士山頂からハガキが届いた。見ると三男からのものだった。登頂した日付と時刻に続いて、こう書いてあった。「一三年ぶりに雪辱を果たしました。今、どうしてあのとき泣き続けたか、その理由がわかりました」と。  一三年前、私たち家族は富士登山を試みた。私と女房、一三歳の長男、一〇歳の二男、それに七歳の三男だった。が、九合目を過ぎ、九・五合目まで来たところで、そこから見あげると、山頂が絶壁の向こうに見えた。そこで私は、多分そのとき三男にこう言ったと思う。「お前には無理だから、ここに残っていろ」と。女房と三男を山小屋に残して、私たちは頂上をめざした。つまりその間中、三男はよほど悔しかったのだろう、山小屋で泣き続けていたという。

●三男はずっと泣いていた!  

 三男はそのあと、高校時代には山岳部に入り、部長を務め、全国大会にまで出場している。今の彼にしてみれば富士山など、そこらの山を登るくらい簡単なことらしい。その日も、大学の教授たちとグループを作って登山しているということだった。女房が朝、新聞を見ながら、「きっとE君はご来光をおがめたわ」と喜んでいた。が、私はその三男のハガキを見て、胸がしめつけられた。あのとき私は、三男の気持ちを確かめなかった。私たちが登山していく姿を見ながら、三男はどんな思いでいたのか。そう、振り返ったとき、三男が女房のズボンに顔をうずめて泣いていたのは覚えている。しかしそのまま泣き続けていたとは!

●後悔は心のトゲ  

 「後悔」という言葉がある。それは心に刺さったトゲのようなものだ。しかしそのトゲにも、刺さっていることに気づかないトゲもある。私はこの一三年間、三男がそんな気持ちでいたことを知る由もなかった。何という不覚! 私はどうして三男にもっと耳を傾けてやらなかったのか。何でもないようなトゲだが、子育ても終わってみると、そんなトゲが心を突き刺す。私はやはりあのとき、時間はかかっても、そして背負ってでも、三男を連れて登頂すべきだった。重苦しい気持ちで女房にそれを伝えると、女房はこう言って笑った。「だって、あれは、E君が足が痛いと言ったからでしょ」と。「Eが、痛いと言ったのか?」「そう、E君が痛いから歩けないと泣いたのよ。それで私も残ったのよ」「じゃあ、ぼくが登頂をやめろと言ったわけではないのか?」「そうよ」と。とたん、心の中をスーッと風が通り抜けるのを感じた。軽い風だった。さっそくそのあと、三男にメールを出した。「登頂、おめでとう。よかったね」と。
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【62】親が子どもをだますとき

●世間体を気にする人  

 夫が入院したとき、「恥ずかしいから」という理由(?)で、その夫(五七歳)を病院から連れ出してしまった妻(五一歳)がいた。あるいは死ぬまで、「店をたたむのは恥ずかしい」と言って、小さな雑貨店をがんばり続けた女性(八五歳)もいた。気持はわからないわけではないが、しかし人は「恥」を気にすると、常識はずれの行動をするようになる。S氏(八一歳)もそうだ。隣の家に「助けてくれ」と電話をかけてきた。そこで隣人がかけつけてみると、S氏は受話器をもったまま玄関先で倒れていた。隣人が「救急車を呼びましょうか」と声をかけると、S氏はこう言ったという。「近所に恥ずかしいから、どうかそれだけはやめてくれ!」と。

●日本の文化は、恥の文化?  

 恥にも二種類ある。世間体を気にする恥。それに自分に対する恥である。日本人は、世間体をひどく気にする反面、自分への恥には甘い。それはそれとして世間体を気にする人には、独特の価値観がある。相対的価値観というべきもので、自分の生きざますら、いつも他人と比較しながら決める。そしてその結果、周囲の人よりよい生活であれば安心し、そうでなければ不安になる。それだけではない。こういう尺度をもつ人は、自分よりよい生活をしている人をねたみ、そうでない人をさげすむ。が、そのさげすんだ分だけ、結局は自分で自分のクビをしめることになる。先の雑貨点を営んでいた女性は、それまで近所で店をたたんだ仲間を、さんざん悪く言ってきた。「バチがあたったからだ」「あわれなもんだ」とか。また救急車を拒否したS氏も、自分より先に死んでいった人たちを、「人間は長生きしたものが勝ち」と、いつも笑っていた。

●息子の土地を無断で転売


 こうした価値観は、そのまま子育てにも反映される。子育てそのものが、世間体を気にしたものになる。当然、子どものとらえ方も、常識とは違ってくる。子どもが、その世間体を飾る道具に利用されることも多い。たとえばYさん(七〇歳女性)がそうだ。

Yさんは言葉巧みに息子(四二歳)から土地の権利書を取りあげると、それをそのまま息子に無断で、転売してしまった。が、Yさんには罪の意識はない。息子が抗議すると、「先祖を守るために親が子どもの財産を使って、どこが悪い」と言ったという。「先祖を守るのは子どもの義務だ」とも。Yさんがいう「先祖」というのは、世間体をいう。もちろんそれで親子の縁は切れた。息子はこう言う。「母でなければ、訴えています」と。ふつうに考えればYさんのした行動は、おかしい。おかしいが、価値観がズレている人には、それがわからない。が、これだけは言える。

 恥だの世間体だのと言っている人は、他人の目の中で人生を生きるようなもの。せっかくの、それもたった一度しかない人生を、ムダにすることにもなりかねない。が、同時に、それも皮肉なことに、他人から見て、それほど見苦しい人生もない。
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【63】教育者が美談を口にするとき

●どこかおかしい美談

 美しい話だが、よく考えてみるとおかしいというような話は、教育の世界には多い。こんな話がある。

 あるテレビタレントがアフリカへ行ったときのこと。物乞いの子どもがその人のところにやってきて、「あなたの持っているペンをくれ」と頼んだという。理由を聞くと、「ぼくはそのペンで勉強をして、この国を救う立派な人間になりたい」(※)と。そのタレントは、感きわまった様子で、ほとんど涙ながらにこの話をしていた(二〇〇〇年夏、H市での教育講演)。しかしこの話はどこかおかしい。だいたい「国を救う」という高邁な精神を持っている子どもが、「ペンをくれ」などと物乞いなどするだろうか。仮にペンを手に入れたとしても、インクの補充はどうするのか。「だから日本の子どもたちよ、豊かであることに感謝せよ」ということを、そのタレントは言いたかったのだろうが、この話はどこか不自然である。こんな事実もある。

●日本の学用品は使えない?

 一五年ほど前のこと。S国からの留学生が帰国に先立って、「母国の子どもたちに学用品を持って帰りたい」と言いだした。最初は一部の教師たちの間の小さな運動だったが、この話はテレビや新聞に取りあげられ、ついで県をあげての支援運動となった。そしてその結果だが、何とトラック一杯分のカバンやノート、筆記用具や本が集まったという。

 で、その一年後、その学用品がどう使われているか、二人の教師が現地まで見に行った。が、大半の学用品はその留学生が持ち逃げ。残った文房具もほとんどが手つかずのまま、学校の倉庫に眠っていたという。理由を聞くと、その学校の先生はこう言った。「父親の一日の給料よりも高価なノートや鉛筆を、どうして子どもに渡せますか」と。「石版にチョークのほうが、使いやすいです」とも。そういう話なら私にもわかるが、「国を救う立派な人間になりたい」とは?

 そうそう似たような話だが、昔、『いっぱいのかけそば』という話もあった。しかしこの話もおかしい。貧しい親子が、一杯のかけそばを分けあって食べたという、あの話である。国会でも取りあげられ、その後、映画にもなった。しかし私がその場にいた親なら、そばには箸をつけない。「私はいいから、お前たちだけで食べろ」と言って、週刊誌でも読んでいる。私には私の生きる誇りというものがある。その誇りを捨てたら、私はおしまい。親としての私もおしまい。またこんな話も……。

●「ぼくのために負けてくれ」

 運動会でのこと。これから五〇メートル走というときのこと。横に並んだB君(小二)が、A君にこう言った。「お願いだから、ぼくのために負けてくれ。でないと、ぼくはママに叱られる」と。そこでA君は最初はB君のうしろを走ったが、わざと負ければ、かえってB君のためにならないと思い、とちゅうから本気で走ってB君を追い抜き、B君に勝った、と。ある著名な大学教授が、ある雑誌の巻頭で披露していた話だが、この話は、視点そのものがおかしい。その教育者は、二人の会話をどうやって知ったというのだろうか。それに教えたことのある人ならすぐわかるが、こういう高度な判断能力は、まだ小学二年生には、ない。仮にあったとしても、あの騒々しい運動会で、どうやってそれができたというのだろうか。さらに、こんな話も……。

●子どもたちは何をしていたか?

 ある小学校教師が一時間目の授業に顔を出したときのこと。小学一年生の生徒たちが、「先生の顔はおかしい」と言った。そこでその教師が鏡を見ると、確かにへんな顔をしていた。原因は、その前の職員会議だった。その会議で不愉快な思いをしたのが、そのまま顔に出ていた。そこでその教師は、三〇分間ほど、近くのたんぼのあぜ道を歩いて気分を取りなおし、そして再び授業に臨んだという。その教師は、「そういうことまでして、私は子どもたちの前に立つときは心を整えた」とテレビで話していたが、この話もおかしい。その三〇分間だが、子どもたちはどこで何をしていたというのだろうか。その教師の話だと、その教師は子どもたちを教室に残したまま散歩に行ったということになるのだが……?

 教育を語る者は、いつも美しい話をしたがる。しかしその美しい話には、じゅうぶん注意したらよい。こうした美しい話のほとんどは、ウソか作り話。中身のない教育者ほど、こうした美しい話で自分の説話を飾りたがる。

※……「立派な社会人思想」は日本のお家芸だが、隣の中国では、今「立派な国民思想」がもてはやされている。親も教師も、子どもに向ってさかんに「立派な国民になれ」と教えている(北京第三三中学校教師談)。それはさておき、そのタレントは、「その子どもは立派な人間になりたいと言った」と話したが、その発想そのものがまさに日本的である。英語には「立派な」にあたる単語すらない。あえて言えば「splendid, fine, noble」(三省堂JRコンサイス和英辞典)だが、ふつうそういう単語は、こういう会話では使わない。別の意味になってしまう。一体その物乞いの子どもは、そのタレントに何と言ったのか。この点からも、そのタレントの話は、ウソと断言してよい。


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子育て はやし浩司 著述 執筆 評論 ファミリス ママ診断 メルボルン大学 はやし浩司 日豪経済委員会 日韓交換学生 三井物産
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【64】子どもに善と悪を教えるとき

●四割の善と四割の悪 
 
 社会に四割の善があり、四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善があり、四割の悪がある。子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさないで、子どもの世界だけをよくしようとしても、無理。子どもがはじめて読んだカタカナが、「ホテル」であったり、「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。時として教育をする者は、子どもにはきびしく、社会には甘くなりやすい。あるいはそういうワナにハマりやすい。ある中学校の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、冬でもその生徒を、プールの中に放り投げていた。その教師はその教師の信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に対してはどうなのか。自分に対しては、そこまできびしいのか。社会に対しては、そこまできびしいのか。親だってそうだ。子どもに「勉強しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強している親は、少ない。

●善悪のハバから生まれる人間のドラマ

 話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動物たちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界になってしまったら、何とつまらないことか。言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の世界を豊かでおもしろいものにしている。無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書についても、こんな説話が残っている。

 ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすくらいなら、最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。神はこう答えている。「希望を与えるため」と。もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという希望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい人間にもなれる。神のような人間になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」と。

●子どもの世界だけの問題ではない

 子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それがわかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世界だけをどうこうしようとしても意味がない。たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問題ではない。問題は、そういう環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。そうでないというのなら、あなたの仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいることについて、あなたはどれほどそれと闘っているだろうか。

 私の知人の中には五〇歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。高校生の娘もいる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘が中年の男と援助交際をしていたら、君は許せるか」と。するとその男は笑いながら、こう言った。「うちの娘は、そういうことはしないよ。うちの娘はまともだからね」と。私は「相手の男を許せるか」という意味で聞いたのに、その知人は、「援助交際をする女性が悪い」と。こういうおめでたさが積もり積もって、社会をゆがめる。子どもの世界をゆがめる。それが問題なのだ。

●悪と戦って、はじめて善人

 よいことをするから善人になるのではない。悪いことをしないから、善人というわけでもない。悪と戦ってはじめて、人は善人になる。そういう視点をもったとき、あなたの社会を見る目は、大きく変わる。子どもの世界も変わる。

(参考)

 子どもたちへ

 魚は陸にあがらないよね。
 鳥は水の中に入らないよね。
 そんなことをすれば死んでしまうこと、
 みんな、知っているからね。
 そういうのを常識って言うんだよね。

 みんなもね、自分の心に
 静かに耳を傾けてみてごらん。
 きっとその常識の声が聞こえてくるよ。
 してはいけないこと、
 しなければならないこと、
 それを教えてくれるよ。

 ほかの人へのやさしさや思いやりは、
 ここちよい響きがするだろ。
 ほかの人を裏切ったり、
 いじめたりすることは、
 いやな響きがするだろ。
 みんなの心は、もうそれを知っているんだよ。
 
 あとはその常識に従えばいい。
 だってね、人間はね、
 その常識のおかげで、
 何一〇万年もの間、生きてきたんだもの。
 これからもその常識に従えばね、
 みんな仲よく、生きられるよ。
 わかったかな。
 そういう自分自身の常識を、
 もっともっとみがいて、
 そしてそれを、大切にしようね。
(詩集「子どもたちへ」より)
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【65】神や仏も教育者だと思うとき
 
●仏壇でサンタクロースに……? 

 小学一年生のときのことだった。私はクリスマスのプレゼントに、赤いブルドーザーのおもちゃが、ほしくてほしくてたまらなかった。母に聞くと、「サンタクロースに頼め」と。そこで私は、仏壇の前で手をあわせて祈った。仏壇の前で、サンタクロースに祈るというのもおかしな話だが、私にはそれしか思いつかなかった。

 かく言う私だが、無心論者と言う割には、結構、信仰深いところもあった。年始の初詣は欠かしたことはないし、仏事もそれなりに大切にしてきた。が、それが一転するできごとがあった。ある英語塾で講師をしていたときのこと。高校生の前で『サダコ(禎子)』(広島平和公園の中にある、「原爆の子の像」のモデルとなった少女)という本を、読んで訳していたときのことだ。私は一行読むごとに涙があふれ、まともにその本を読むことができなかった。そのとき以来、私は神や仏に願い事をするのをやめた。「私より何万倍も、神や仏の力を必要としている人がいる。私より何万倍も真剣に、神や仏に祈った人がいる」と。いや、何かの願い事をしようと思っても、そういう人たちに申し訳なくて、できなくなってしまった。

●身勝手な祈り

 「奇跡」という言葉がある。しかし奇跡などそう起こるはずもないし、いわんや私のような人間に起こることなどありえない。「願いごと」にしてもそうだ。「クジが当たりますように」とか、「商売が繁盛しますように」とか。そんなふうに祈る人は多いが、しかしそんなことにいちいち手を貸す神や仏など、いるはずがない。いたとしたらインチキだ。一方、今、小学生たちの間で、占いやおまじないが流行している。携帯電話の運勢占いコーナーには、一日一〇〇万件近いアクセスがあるという(テレビ報道)。どうせその程度の人が、でまかせで作っているコーナーなのだろうが、それにしても一日一〇〇万件とは! あの『ドラえもん』の中には、「どこでも電話」というのが登場する。今からたった二五年前には、「ありえない電話」だったのが、今では幼児だって持っている。奇跡といえば、よっぽどこちらのほうが奇跡だ。

 その奇跡のような携帯電話を使って、「運勢占い」とは……? 人間の理性というのは、文明が発達すればするほど、退化するものなのか。話はそれたが、こんな子ども(小五男児)がいた。窓の外をじっと見つめていたので、「何をしているのだ」と聞くと、こう言った。「先生、ぼくは超能力がほしい。超能力があれば、あのビルを吹っ飛ばすことができる!」と。

●難解な仏教論も教育者の目で見ると

 ところで難解な仏教論も、教育にあてはめて考えてみると、突然わかりやすくなることがある。たとえば親鸞の『回向論』。『(善人は浄土へ行ける。)いわんや悪人をや』という、あの回向論である。これを仏教的に解釈すると、「念仏を唱えるにしても、信心をするにしても、それは仏の命令によってしているにすぎない。だから信心しているものには、真実はなく、悪や虚偽に包まれてはいても、仏から真実を与えられているから、浄土へ行ける……」(大日本百科事典・石田瑞麿氏)となる。しかしこれでは意味がわからない。こうした解釈を読んでいると、何がなんだかさっぱりわからなくなる。宗教哲学者の悪いクセだ。読んだ人を、言葉の煙で包んでしまう。要するに親鸞が言わんとしていることは、「善人が浄土へ行けるのは当たり前のことではないか。悪人が念仏を唱えるから、そこに信仰の意味がある。つまりそういう人ほど、浄土へ行ける」と。しかしそれでもまだよくわからない。

 そこでこう考えたらどうだろうか。「頭のよい子どもが、テストでよい点をとるのは当たり前のことではないか。頭のよくない子どもが、よい点をとるところに意味がある。つまりそういう子どもこそ、ほめられるべきだ」と。もう少し別のたとえで言えば、こうなる。「問題のない子どもを教育するのは、簡単なことだ。そういうのは教育とは言わない。問題のある子どもを教育するから、そこに教育の意味がある。またそれを教育という」と。私にはこんな経験がある。

●バカげた地獄論

 ずいぶんと昔のことだが、私はある宗教教団を批判する記事を、ある雑誌に書いた。その教団の指導書に、こんなことが書いてあったからだ。いわく、「この宗教を否定する者は、無間地獄に落ちる。他宗教を信じている者ほど、身体障害者が多いのは、そのためだ」(N宗機関誌)と。こんな文章を、身体に障害のある人が読んだら、どう思うだろうか。あるいはその教団には、身体に障害のある人はいないとでもいうのだろうか。

が、その直後からあやしげな人たちが私の近辺に出没し、私の悪口を言いふらすようになった。「今に、あの家族は、地獄へ落ちる」と。こういうものの考え方は、明らかにまちがっている。他人が地獄へ落ちそうだったら、その人が地獄へ落ちないように祈ってやることこそ、彼らが言うところの慈悲ではないのか。私だっていつも、批判されている。子どもたちにさえ、批判されている。中には「バカヤロー」と悪態をついて教室を出ていく子どももいる。しかしそういうときでも、私は「この子は苦労するだろうな」とは思っても、「苦労すればいい」とは思わない。神や仏ではない私だって、それくらいのことは考える。いわんや神や仏をや。批判されたくらいで、いちいちその批判した人を地獄へ落とすようなら、それはもう神や仏ではない。悪魔だ。だいたいにおいて、地獄とは何か? 子育てで失敗したり、問題のある子どもをもつということが地獄なのか。しかしそれは地獄でも何でもない。教育者の目を通して見ると、そんなことまでわかる。

●キリストも釈迦も教育者?

 そこで私は、ときどきこう思う。キリストにせよ釈迦にせよ、もともとは教師ではなかったか、と。ここに書いたように、教師の立場で、聖書を読んだり、経典を読んだりすると、意外とよく理解できる。さらに一歩進んで、神や仏の気持ちが理解できることがある。たとえば「先生、先生……」と、すり寄ってくる子どもがいる。しかしそういうとき私は、「自分でしなさい」と突き放す。「何とかいい成績をとらせてください」と言ってきたときもそうだ。いちいち子どもの願いごとをかなえてやっていたら、その子どもはドラ息子になるだけ。自分で努力することをやめてしまう。そうなればなったで、かえってその子どものためにならない。人間全体についても同じ。スーパーパワーで病気を治したり、国を治めたりしたら、人間は自ら努力することをやめてしまう。医学も政治学もそこでストップしてしまう。それはまずい。しかしそう考えるのは、まさに神や仏の心境と言ってもよい。

 そうそうあのクリスマス。朝起きてみると、そこにあったのは、赤いブルドーザーではなく、赤い自動車だった。私は子どもながらに、「神様もいいかげんだな」と思ったのを、今でもはっきりと覚えている。
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【66】教師が宗教を語るとき

●宗教論はタブー 

 教育の場で、宗教の話は、タブー中のタブー。こんな失敗をしたことがある。一人の子ども(小三男児)がやってきて、こう言った。「先週、遠足の日に雨が降ったのは、バチが当たったからだ」と。そこで私はこう言った。「バチなんてものは、ないのだよ。それにこのところの水不足で、農家の人は雨が降って喜んだはずだ」と。翌日、その子どもの祖父が、私のところへ怒鳴り込んできた。「貴様はうちの孫に、何てことを教えるのだ! 余計なこと、言うな!」と。その一家は、ある仏教系の宗教教団の熱心な信者だった。

 また別の日。一人の母親が深刻な顔つきでやってきて、こう言った。「先生、うちの主人には、シンリが理解できないのです」と。私は「真理」のことだと思ってしまった。そこで「真理というのは、そういうものかもしれませんね。実のところ、この私も教えてほしいと思っているところです」と。その母親は喜んで、あれこれ得意気に説明してくれた。が、どうも会話がかみ合わない。そこで確かめてみると、「シンリ」というのは「神理」のことだとわかった。

 さらに別の日。一人の女の子(小五)が、首にひもをぶらさげていた。夏の暑い日で、それが汗にまみれて、半分肩の上に飛び出していた。そこで私が「これは何?」とそのひもに手をかけると、その女の子は、びっくりするような大声で、「ギャアーッ!」と叫んだ。叫んで、「汚れるから、さわらないで!」と、私を押し倒した。その女の子の一家も、ある宗教教団の熱心な信者だった。

●宗教と人間のドラマ

 人はそれぞれの思いをもって、宗教に身を寄せる。そういう人たちを、とやかく言うことは許されない。よく誤解されるが、宗教があるから、信者がいるのではない。宗教を求める信者がいるから、宗教がある。だから宗教を否定しても意味がない。それに仮に、一つの宗教が否定されたとしても、その団体とともに生きてきた人間、なかんずく人間のドラマまで否定されるものではない。

 今、この時点においても、日本だけで二三万団体もの宗教団体がある。その数は、全国の美容院の数(二〇万)より多い(二〇〇〇年)。それだけの宗教団体があるということは、それだけの信者がいるということ。そしてそれぞれの人たちは、何かを求めて懸命に信仰している。その懸命さこそが、まさに人間のドラマなのだ。

●「さあ、ぼくにはわからない」

 子どもたちはよく、こう言って話しかけてくる。「先生、神様って、いるの?」と。私はそういうとき「さあね、ぼくにはわからない。おうちの人に聞いてごらん」と逃げる。あるいは「あの世はあるの?」と聞いてくる。そういうときも、「さあ、ぼくにはわからない」と逃げる。霊魂や幽霊についても、そうだ。ただ念のため申し添えるなら、私自身は、まったくの無神論者。「無神論」という言い方には、少し抵抗があるが、要するに、手相、家相、占い、予言、運命、運勢、姓名判断、さらに心霊、前世来世論、カルト、迷信のたぐいは、一切、信じていない。信じていないというより、もとから考えの中に入っていない。

 私と女房が籍を入れたのは、仏滅の日。「私の誕生日に合わせたほうが忘れないだろう」ということで、その日にした。いや、それとて、つまり籍を入れたその日が仏滅の日だったということも、あとから母に言われて、はじめて知った。


存と愛着 育児ノイローゼ 一芸論 ウソ 内弁慶 右脳教育 エディプス・コンプレックス おてんばな子おねしょ(夜尿症) おむつ(高層
住宅) 親意識 親の愛 親離れ 音読と黙読 学習机 学力 学歴信仰 学校はやし浩司 タイプ別育児論 恐怖症 家庭教師 過保護 
過剰行動 考える子ども がんこな子ども 緩慢行動 かん黙児 気うつ症の子ども 気負い 帰宅拒否 気難しい子 虐待 キレる子ども
 虚言(ウソ) 恐怖症 子供の金銭感覚 計算力 ゲーム ケチな子ども 行為障害 心を開かない子ども 個性 こづかい 言葉能力、
読解力 子どもの心 子離れ はやし浩司 タイプ別育児論 子供の才能とこだわり 自慰 自意識 自己嫌悪 自殺 自然教育 自尊心 
【67】親意識が子育てをゆがめるとき

●「私は親だ」というのが親意識 

 「私は親だ」というのが親意識。これが強ければ強いほど、子どもも疲れるが、親も疲れる。それだけではない。親意識の背景にある上下意識、これが親子関係をゆがめる。上下意識のある関係、つまり命令と服従、保護と依存のある関係から、良好な人間関係は生まれない。ある母親は、子ども(小一)に、「バカ!」と言われるたびに、「親に向かって何てことを言うの!」と、本気で怒っていた。そこで私に相談があった。「先生は、親子は平等だと言うが、こういうときはどうしたらいいのか」と。

●互いに高い次元で認めあって平等

 平等というのは、相手の人格を認め、それを尊重することをいう。高い次元で認めあうことを平等という。たとえ相手が幼児でも、そうする。こんなシーンがあった。あるアメリカ人の女優の家にカメラマンが押し寄せたときのこと。たまたまその女優が、小さな女の子(五歳ぐらい)を連れて、玄関を出てきた。が、その女の子がフラッシュに驚いて、母親のうしろに隠れた。そのときのことである。母親は、女の子に懸命に笑顔で話しかけながら、そのままあとずさりして、家の中へ消えてしまった。私はそのシーンを見ながら、「こういうとき日本人ならどうするだろうか」と考えた。あるいはあなたなら、どうするだろうか。

●子どもの気持ちを確かめる

 子どもは確かに未熟で未経験だ。しかしそれを除けば、一人の人間である。そういう視点に立って子どもを見ることを、「平等」という。たとえば子どもに何かのおけいこをさせるときでも、「してみたい?」とか、「あなたはどう思う?」とか聞いてからにする。やめるときもそうだ。あるいは子どもが学校で悪い成績をとってきて、落ち込んでいたとする。そういうときでも、子どもの気持ちになって、子どもと同じ立場でそれを悩んであげる。それを平等という。それがわからなければ夫と妻の立場で考えてみればよい。もしあなたという妻が、夫から、「お前の料理はまずい。明日から料理教室へ行け」と言われたら、あなたはそれに従うだろうか。そのときあなたが、夫に何かを反論したとする。そのとき夫が、「夫に向かって何だ、その態度は!」と言ったら、あなたはそれに納得するだろうか。相手の視点に立って見るということは、そういうことをいう。

●親意識の強い親

 冒頭の話だが、子どもに「バカ」と言われて気にする親もいれば、気にしない親もいる。あるいは子どもにバカと思わせつつ、それを利用して、子どもを伸ばす親もいる。子どもの側からみてもそうだ。「バカな親」と思いつつ、親を尊敬している子どももいれば、そうでない子どももいる。私の近所にも、たいへん金持ちの人がいる。本人は、自分では尊敬に値する人間と思っているらしいが、誰もそんなふうには思っていない。人を尊敬するとかしないとかいうことは、もっと別のところで決まる。要するに子どもに「バカ」と言われても、気にしないこと。

かく言う私も、よく生徒にバカと言われる。そういうときは、こう言い返すようにしている。「私はバカではない。大バカだ。まちがえるな」と。先日も私のことを「ジジイ」と言う子どもがいた。そこで私はその子どもにこう言ってやった。「もっと悪い言葉を教えてあげようか」と。するとその子どもは、「教えて、教えて」と。私はおもむろにその子どもに顔をむけると、こう言った。「いいか、これはとても悪い言葉だ。お父さんや先生に言ってはダメだよ。わかったね。……では、教えてあげよう。ビ・ダ・ン・シ(美男子)」と。それからというもの、その子どもは私を見るたびに、私に向かって、「ビダンシ!」「ビダンシ!」と言うようになった。

●子どもを抑え込んではいけない

 子どもの口が悪いのは、当たり前。奨励せよというわけではないが、それが言えないほどまでに、子どもを押さえつけてはいけない。あるいはユーモアで切り返す。このユーモアが、子どもの心を広くする。要するに、相手は子ども。本気で相手にしてはいけない。よく「友だち親子」の是非が話題になる。「友だち親子はいいのか、悪いのか」と。しかし子どもが友だちになりえるのは、子どもが中学生や高校生になってからだ。それまでは友だちにすら、なりえない。もちろんそれまででも友だち的なつきあいができれば、それはすばらしい。友だち親子、おおいに結構。どこが悪い? 親の権威だの威厳だのと言っている間は、日本人は、封建時代の亡霊と決別することはできない。

 そうそうあのアメリカ人の女優のケースだが、日本人なら多分、こう言って子どもを前に押し出すに違いない。「何をしているの。お母さんが、恥ずかしいでしょう。ちゃんとしなさい!」と。こうした押しつけが、親子の間にミゾを作る。そしてそのミゾが、やがて親子断絶へとつながる。
 親意識などなくても、子育てで困ることは何もない。

(付記)
●日本人特有の上下意識

 親意識と同列に考えてよいのに、「兄意識」「姉意識」、さらには「しゅうと意識」「しゅうとめ意識」などがある。「先輩意識」「後輩意識」のほか、夫婦の間では「夫意識」というのもある。上下意識の強い人ほど、あらゆる場面で上下関係を作ろうとする。またそれがないと安心できない。上下関係を意識しながら生きること自体が、その人の人生観になっているケースもある。日本型の出世主義も、こうした背景から生まれた。だからその上下意識を否定するようなことを言ったりしたりすると、このタイプの人は猛烈に反発する。「生意気だ」「失敬だ」「礼儀知らずだ」と。

 なおこのタイプの人は、名誉や地位、肩書きを重んじ、権威に弱い。「立派」「偉い」という言葉をよく使う。そんなわけで日ごろから、「私は兄だ」「夫だ」「先輩だ」などと、上下関係をよく口にする人ほど、要注意。親意識が強く、それだけ子育てで失敗する危険性が高い。
叱り方 しつけ 自閉症 受験ノイローゼ 小食 心的外傷後ストレス障害 情緒不安 自立心 集中力 就眠のしつけ 神経質な子ども 
神経症 スキンシップ 巣立ち はやし浩司 タイプ別育児論 すなおな子ども 性教育 先生とのトラブル 善悪 祖父母との同居 大学
教育 体罰 多動児男児の女性化 断絶 チック 長男・二男 直観像素質 溺愛 動機づけ 子供の同性愛 トラブル 仲間はずれ 生
意気な子ども 二番目の子 はやし浩司 タイプ別育児論 伸び悩む子ども 伸びる子ども 発語障害 反抗 反抗期(第一反抗期) 非
行 敏捷(びんしょう)性 ファーバー方式 父性と母性 不登校 ぶりっ子(優等生?) 分離不安 平和教育 勉強が苦手 勉強部屋 ホ
【68】母親が育児ノイローゼになるとき

●頭の中で数字が乱舞した
    
 それはささいな事故で始まった。まず、バスを乗り過ごしてしまった。保育園へ上の子ども(四歳児)を連れていくとちゅうのできごとだった。次に風呂にお湯を入れていたときのことだった。気がついてみると、バスタブから湯がザーザーとあふれていた。しかも熱湯。すんでのところで、下の子ども(二歳児)が、大やけどを負うところだった。次に店にやってきた客へのつり銭をまちがえた。何度レジをたたいても、指がうまく動かなかった。あせればあせるほど、頭の中で数字が勝手に乱舞し、わけがわからなくなってしまった。

●「どうしたらいいでしょうか」

 Aさん(母親、三六歳)は、育児ノイローゼになっていた。もし病院で診察を受けたら、うつ病と診断されたかもしれない。しかしAさんは病院へは行かなかった。子どもを保育園へ預けたあと、昼間は一番奥の部屋で、カーテンをしめたまま、引きこもるようになった。食事の用意は何とかしたが、そういう状態では、満足な料理はできなかった。そういうAさんを、夫は「だらしない」とか、「お前は、なまけ病だ」とか言って責めた。昔からの米屋だったが、店の経営はAさんに任せ、夫は、宅配便会社で夜勤の仕事をしていた。

 そのAさん。私に会うと、いきなり快活な声で話しかけてきた。「先生、先日は通りで会ったのに、あいさつもしなくてごめんなさい」と。私には思い当たることがなかったので、「ハア……、別に気にしませんでした」と言ったが、今度は態度を一変させて、さめざめと泣き始めた。そしてこう言った。「先生、私、疲れました。子育てを続ける自信がありません。どうしたらいいでしょうか」と。冒頭に書いた話は、そのときAさんが話してくれたことである。

●育児ノイローゼ

 育児ノイローゼの特徴としては、次のようなものがある。@生気感情(ハツラツとした感情)の沈滞、A思考障害(頭が働かない、思考がまとまらない、迷う、堂々巡りばかりする、記憶力の低下)、B精神障害(感情の鈍化、楽しみや喜びなどの欠如、悲観的になる、趣味や興味の喪失、日常活動への興味の喪失)、C睡眠障害(早朝覚醒に不眠)など。さらにその状態が進むと、Aさんのように、D風呂に熱湯を入れても、それに気づかなかったり(注意力欠陥障害)、Eムダ買いや目的のない外出を繰り返す(行為障害)、Fささいなことで極度の不安状態になる(不安障害)、G同じようにささいなことで激怒したり、子どもを虐待するなど感情のコントロールができなくなる(感情障害)、H他人との接触を嫌う(回避性障害)、I過食や拒食(摂食障害)を起こしたりするようになる。Jまた必要以上に自分を責めたり、罪悪感をもつこともある(妄想性)。こうした兆候が見られたら、黄信号ととらえる。育児ノイローゼが、悲惨な事件につながることも珍しくない。子どもが間にからんでいるため、子どもが犠牲になることも多い。

●夫の理解と協力が不可欠

 ただこうした症状が母親に表れても、母親本人がそれに気づくということは、ほとんどない。脳の中枢部分が変調をきたすため、本人はそういう状態になりながらも、「私はふつう」と思い込む。あるいは症状を指摘したりすると、かえってそのことを苦にして、症状が重くなってしまったり、さらにひどくなると、冷静な会話そのものができなくなってしまうこともある。Aさんのケースでも、私は慰め役に回るだけで、それ以上、何も話すことができなかった。

 そこで重要なのが、まわりにいる人、なかんずく夫の理解と協力ということになる。Aさんも、子育てはすべてAさんに任され、夫は育児にはまったくと言ってよいほど、無関心であった。それではいけない。子育ては重労働だ。私は、Aさんの夫に手紙を書くことにした。この原稿は、そのときの手紙をまとめたものである。

ームスクール はやし浩司 タイプ別育児論 本嫌いの子ども マザーコンプレックス夢想する子ども 燃え尽き 問題児 子供のやる気 
やる気のない子ども 遊離(子どもの仮面) 指しゃぶり 欲求不満 よく泣く子ども 横を見る子ども わがままな子ども ワークブック 忘
れ物が多い子ども 乱舞する子ども 赤ちゃんがえり 赤ちゃん帰り 赤ちゃん返り 家庭内暴力 子供の虚言癖 はやし浩司 タイプ別
育児論はじめての登園 ADHD・アメリカの資料より 学校拒否症(不登校)・アメリカ医学会の報告(以上 はやし浩司のタイプ別育児論
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【69】母親がアイドリングするとき
 
●アイドリングする母親

 何かもの足りない。どこか虚しくて、つかみどころがない。日々は平穏で、それなりに幸せのハズ。が、その実感がない。子育てもわずらわしい。夢や希望はないわけではないが、その充実感がない……。今、そんな女性がふえている。Hさん(三二歳)もそうだ。結婚したのは二四歳のとき。どこか不本意な結婚だった。いや、二〇歳のころ、一度だけ電撃に打たれるような恋をしたが、その男性とは、結局は別れた。そのあとしばらくして、今の夫と何となく交際を始め、数年後、これまた何となく結婚した。

●マディソン郡の橋

 R・ウォラーの『マディソン郡の橋』の冒頭は、こんな文章で始まる。「どこにでもある田舎道の土ぼこりの中から、道端の一輪の花から、聞こえてくる歌声がある」(村松潔氏訳)と。主人公のフランチェスカはキンケイドと会い、そこで彼女は突然の恋に落ちる。忘れていた生命の叫びにその身を焦がす。どこまでも激しく、互いに愛しあう。つまりフランチェスカは、「日に日に無神経になっていく世界で、かさぶただらけの感受性の殻に閉じこもって」生活をしていたが、キンケイドに会って、一変する。彼女もまた、「(戦後の)あまり選り好みしてはいられないのを認めざるをえない」という状況の中で、アメリカ人のリチャードと結婚していた。

●不完全燃焼症候群

 心理学的には、不完全燃焼症候群ということか。ちょうど信号待ちで止まった車のような状態をいう。アイドリングばかりしていて、先へ進まない。からまわりばかりする。Hさんはそうした不満を実家の両親にぶつけた。が、「わがまま」と叱られた。夫は夫で、「何が不満だ」「お前は幸せなハズ」と、相手にしてくれなかった。しかしそれから受けるストレスは相当なものだ。

昔、今東光という作家がいた。その今氏をある日、東京築地のがんセンターへ見舞うと、こんな話をしてくれた。「自分は若いころは修行ばかりしていた。青春時代はそれで終わってしまった。だから今でも、『しまった!』と思って、ベッドからとび起き、女を買いに行く」と。「女を買う」と言っても、今氏のばあいは、絵のモデルになる女性を求めるということだった。晩年の今氏は、裸の女性の絵をかいていた。細い線のしなやかなタッチの絵だった。私は今氏の「生」への執着心に驚いたが、心の「かさぶた」というのは、そういうものか。その人の人生の中で、いつまでも重く、心をふさぐ。

●思い切ってアクセルを踏む

 が、こういうアイドリング状態から抜け出た女性も多い。Tさんは、二人の女の子がいたが、下の子が小学校へ入学すると同時に、手芸の店を出した。Aさんは、夫の医院を手伝ううち、医療事務の知識を身につけ、やがて医療事務を教える講師になった。またNさんは、ヘルパーの資格を取るために勉強を始めた、などなど。「かさぶただらけの感受性の殻」から抜け出し、道路を走り出した人は多い。だから今、あなたがアイドリングしているとしても、悲観的になることはない。時の流れは風のようなものだが、止まることもある。しかしそのままということは、ない。子育ても一段落するときがくる。そのときが新しい出発点。アイドリングをしても、それが終着点と思うのではなく、そこを原点として前に進む。方法は簡単。勇気を出して、アクセルを踏む。妻でもなく、母でもなく、女でもなく、一人の人間として。それでまた風は吹き始める。人生は動き始める。

司 林浩 幼児教育研究 子育て評論 子育て評論家 子どもの心 子どもの心理 子ども相談 子ども相談 はやし浩司 育児論 子育
て論 幼児教育論 幼児教育 子育て問題 育児問題 はやし浩司 林浩司



【70】教育を通して自分を発見するとき
 
●教育を通して自分を知る

 教育のおもしろさ。それは子どもを通して、自分自身を知るところにある。たとえば、私の家には二匹の犬がいる。一匹は捨て犬で、保健所で処分される寸前のものをもらってきた。これをA犬とする。もう一匹は愛犬家のもとで、ていねいに育てられた。生後二か月くらいしてからもらってきた。これをB犬とする。

 まずA犬。静かでおとなしい。いつも人の顔色ばかりうかがっている。私の家に来て、一二年にもなろうというのに、いまだに私たちの見ているところでは、餌を食べない。愛想はいいが、決して心を許さない。その上、ずる賢く、庭の門をあけておこうものなら、すぐ遊びに行ってしまう。そして腹が減るまで、戻ってこない。もちろん番犬にはならない。見知らぬ人が庭の中に入ってきても、シッポを振ってそれを喜ぶ。

 一方B犬は、態度が大きい。寝そべっているところに近づいても、知らぬフリをして、そのまま寝そべっている。庭で放し飼いにしているのだが、一日中、悪さばかりしている。おかげで植木鉢は全滅。小さな木はことごとく、根こそぎ抜かれてしまった。しかしその割には、人間には忠実で、門をあけておいても、外へは出ていかない。見知らぬ人が入ってこようものなら、けたたましく吠える。

●人間も犬も同じ

 ……と書いて、実は人間も犬と同じと言ったらよいのか、あるいは犬も人間と同じと言ったらよいのか、どちらにせよ同じようなことが、人間の子どもにも言える。いろいろ誤解を生ずるので、ここでは詳しく書けないが、性格というのは、一度できあがると、それ以後、なかなか変わらないということ。A犬は、人間にたとえるなら、育児拒否、無視、親の冷淡を経験した犬。心に大きなキズを負っている。一方B犬は、愛情豊かな家庭で、ふつうに育った犬。一見、愛想は悪いが、人間に心を許すことを知っている。だから人間に甘えるときは、心底うれしそうな様子でそうする。つまり人間を信頼している。幸福か不幸かということになれば、A犬は不幸な犬だし、B犬は幸福な犬だ。人間の子どもにも同じようなことが言える。

●施設で育てられた子ども

 たとえば施設児と呼ばれる子どもがいる。生後まもなくから施設などに預けられた子どもをいう。このタイプの子どもは愛情不足が原因で、独特の症状を示すことが知られている。感情の動きが平坦になる、心が冷たい、知育の発達が遅れがちになる、貧乏ゆすりなどのクセがつきやすい(長畑正道氏)など。が、何といっても最大の特徴は、愛想がよくなるということ。相手にへつらう、相手に合わせて自分の心を偽る、相手の顔色をうかがって行動する、など。一見、表情は明るく快活だが、そのくせ相手に心を許さない。許さない分だけ、心はさみしい。あるいは「いい人」という仮面をかぶり、無理をする。そのため精神的に疲れやすい。

●施設児的な私

実はこの私も、結構、人に愛想がよい。「あなたは商人の子どもだから」とよく言われるが、どうもそれだけではなさそうだ。相手の心に取り入るのがうまい。相手が喜ぶように、自分をごまかす。茶化す。そのくせ誰かに裏切られそうになると、先に自分のほうから離れてしまう。

つまり私は、かなり不幸な幼児期を過ごしている。当時は戦後の混乱期で、皆、そうだったと言えばそうだった。親は親で、食べていくだけで精一杯。教育の「キ」の字もない時代だった。……と書いて、ここに教育のおもしろさがある。他人の子どもを分析していくと、自分の姿が見えてくる。「私」という人間が、いつどうして今のような私になったか、それがわかってくる。私が私であって、私でない部分だ。私は施設児の問題を考えているとき、それはそのまま私自身の問題であることに気づいた。

●まず自分に気づく

 読者の皆さんの中には、不幸にして不幸な家庭に育った人も多いはずだ。家庭崩壊、家庭不和、育児拒否、親の暴力に虐待、冷淡に無視、放任、親との離別など。しかしそれが問題ではない。問題はそういう不幸な家庭で育ちながら、自分自身の心のキズに気づかないことだ。たいていの人はそれに気づかないまま、自分の中の自分でない部分に振り回されてしまう。そして同じ失敗を繰り返す。それだけではない。同じキズを今度はあなたから、あなたの子どもへと伝えてしまう。心のキズというのはそういうもので、世代から世代へと伝播しやすい。が、しかしこの問題だけは、それに気づくだけでも、大半は解決する。私のばあいも、ゆがんだ自分自身を、別の目で客観的に見ることによって、自分をコントロールすることができるようになった。「ああ、これは本当の自分ではないぞ」「私は今、無理をしているぞ」「仮面をかぶっているぞ」「もっと相手に心を許そう」と。そのつどいろいろ考える。つまり子どもを指導しながら、結局は自分を指導する。そこに教育の本当のおもしろさがある。あなたも一度自分の心の中を旅してみるとよい。



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