●どこかおかしい美談
美しい話だが、よく考えてみるとおかしいというような話は、教育の世界には多い。こんな話がある。
あるテレビタレントがアフリカへ行ったときのこと。物乞いの子どもがその人のところにやってきて、「あなたの持っているペンをくれ」と頼んだという。理由を聞くと、「ぼくはそのペンで勉強をして、この国を救う立派な人間になりたい」(※)と。そのタレントは、感きわまった様子で、ほとんど涙ながらにこの話をしていた(二〇〇〇年夏、H市での教育講演)。しかしこの話はどこかおかしい。だいたい「国を救う」という高邁な精神を持っている子どもが、「ペンをくれ」などと物乞いなどするだろうか。仮にペンを手に入れたとしても、インクの補充はどうするのか。「だから日本の子どもたちよ、豊かであることに感謝せよ」ということを、そのタレントは言いたかったのだろうが、この話はどこか不自然である。こんな事実もある。
●日本の学用品は使えない?
一五年ほど前のこと。S国からの留学生が帰国に先立って、「母国の子どもたちに学用品を持って帰りたい」と言いだした。最初は一部の教師たちの間の小さな運動だったが、この話はテレビや新聞に取りあげられ、ついで県をあげての支援運動となった。そしてその結果だが、何とトラック一杯分のカバンやノート、筆記用具や本が集まったという。
で、その一年後、その学用品がどう使われているか、二人の教師が現地まで見に行った。が、大半の学用品はその留学生が持ち逃げ。残った文房具もほとんどが手つかずのまま、学校の倉庫に眠っていたという。理由を聞くと、その学校の先生はこう言った。「父親の一日の給料よりも高価なノートや鉛筆を、どうして子どもに渡せますか」と。「石版にチョークのほうが、使いやすいです」とも。そういう話なら私にもわかるが、「国を救う立派な人間になりたい」とは?
そうそう似たような話だが、昔、『いっぱいのかけそば』という話もあった。しかしこの話もおかしい。貧しい親子が、一杯のかけそばを分けあって食べたという、あの話である。国会でも取りあげられ、その後、映画にもなった。しかし私がその場にいた親なら、そばには箸をつけない。「私はいいから、お前たちだけで食べろ」と言って、週刊誌でも読んでいる。私には私の生きる誇りというものがある。その誇りを捨てたら、私はおしまい。親としての私もおしまい。またこんな話も……。
●「ぼくのために負けてくれ」
運動会でのこと。これから五〇メートル走というときのこと。横に並んだB君(小二)が、A君にこう言った。「お願いだから、ぼくのために負けてくれ。でないと、ぼくはママに叱られる」と。そこでA君は最初はB君のうしろを走ったが、わざと負ければ、かえってB君のためにならないと思い、とちゅうから本気で走ってB君を追い抜き、B君に勝った、と。ある著名な大学教授が、ある雑誌の巻頭で披露していた話だが、この話は、視点そのものがおかしい。その教育者は、二人の会話をどうやって知ったというのだろうか。それに教えたことのある人ならすぐわかるが、こういう高度な判断能力は、まだ小学二年生には、ない。仮にあったとしても、あの騒々しい運動会で、どうやってそれができたというのだろうか。さらに、こんな話も……。
●子どもたちは何をしていたか?
ある小学校教師が一時間目の授業に顔を出したときのこと。小学一年生の生徒たちが、「先生の顔はおかしい」と言った。そこでその教師が鏡を見ると、確かにへんな顔をしていた。原因は、その前の職員会議だった。その会議で不愉快な思いをしたのが、そのまま顔に出ていた。そこでその教師は、三〇分間ほど、近くのたんぼのあぜ道を歩いて気分を取りなおし、そして再び授業に臨んだという。その教師は、「そういうことまでして、私は子どもたちの前に立つときは心を整えた」とテレビで話していたが、この話もおかしい。その三〇分間だが、子どもたちはどこで何をしていたというのだろうか。その教師の話だと、その教師は子どもたちを教室に残したまま散歩に行ったということになるのだが……?
教育を語る者は、いつも美しい話をしたがる。しかしその美しい話には、じゅうぶん注意したらよい。こうした美しい話のほとんどは、ウソか作り話。中身のない教育者ほど、こうした美しい話で自分の説話を飾りたがる。
※……「立派な社会人思想」は日本のお家芸だが、隣の中国では、今「立派な国民思想」がもてはやされている。親も教師も、子どもに向ってさかんに「立派な国民になれ」と教えている(北京第三三中学校教師談)。それはさておき、そのタレントは、「その子どもは立派な人間になりたいと言った」と話したが、その発想そのものがまさに日本的である。英語には「立派な」にあたる単語すらない。あえて言えば「splendid, fine, noble」(三省堂JRコンサイス和英辞典)だが、ふつうそういう単語は、こういう会話では使わない。別の意味になってしまう。一体その物乞いの子どもは、そのタレントに何と言ったのか。この点からも、そのタレントの話は、ウソと断言してよい。
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