岐阜県の長良川。その長良川のアユに異変が起きて、久しい。そのアユを見続けてきた一人の老人は、こう言った。「アユが縄張り争いをしない」と。武儀郡板取村に住むN氏である。
「最近のアユは水のたまり場で、ウロウロと集団で住んでいる」と。原因というより理由は、養殖。この二〇年間、長良川を泳ぐアユの大半は、稚魚の時代に、琵琶湖周辺の養魚場で育てられたアユだ。体長が数センチになったところで、毎年三〜四月に、長良川に放流される。人工飼育という不自然な飼育環境が、こういうアユを生んだ。しかしこれはアユという魚の話。実はこれと同じ現象が、子どもの世界にも起きている!
スコップを横取りされても、抗議できない。ブランコの上から砂をかけられても、文句も言えない。ドッジボールをしても、ただ逃げ回るだけ。先生がプリントや給食を配り忘れても、「私の分がない」と言えない。これらは幼稚園児の話だが、中学生とて例外ではない。キャンプ場で、たき火がメラメラと急に燃えあがったとき、「こわい!」と、その場から逃げてきた子どもがいた。小さな虫が机の上をはっただけで、「キャーッ」と声をあげる子どもとなると、今では大半がそうだ。
子どもというのは、幼いときから、取っ組みあいの喧嘩をしながら、たくましくなる。そういう形で、人間はここまで進化してきた。もしそういうたくましさがなかったら、とっくの昔に人間は絶滅していたはずである。が、そんな基本的なことすら、今、できなくなってきている。核家族化に不自然な非暴力主義。それに家族のカプセル化。カプセル化というのは、自分の家族を厚いカラでおおい、思想的に社会から孤立することをいう。このタイプの家族は、他人の価値観を認めない。あるいは他人に心を許さない。カルト教団の信者のように、その内部だけで、独自の価値観を先鋭化させてしまう。そのためものの考え方が、かたよったり、極端になる。……なりやすい。
また「いじめ」が問題視される反面、本来人間がもっている闘争心まで否定してしまう。子ども同士の悪ふざけすら、「そら、いじめ!」と、頭からおさえつけてしまう。
こういう環境の中で、子どもは養殖化される。ウソだと思うなら、一度、子どもたちの遊ぶ風景を観察してみればよい。最近の子どもはみんな、仲がよい。仲がよ過ぎる。砂場でも、それぞれが勝手なことをして遊んでいる。私たちが子どものころには、どんな砂場にもボスがいて、そのボスの許可なしでは、砂場に入れなかった。私自身がボスになることもあった。そしてほかの子どもたちは、そのボスの命令に従って山を作ったり、水を運んでダムを作ったりした。仮にそういう縄張りを荒らすような者が現われたりすれば、私たちは力を合わせて、その者を追い出した。
平和で、のどかに泳ぎ回るアユ。見方によっては、縄張りを争うアユより、ずっとよい。理想的な社会だ。すばらしい。すべてのアユがそうなれば、「友釣り」という釣り方もなくなる。人間たちの残虐な楽しみの一つを減らすことができる。しかし本当にそれでよいのか。それがアユの本来の姿なのか。その答は、みなさんで考えてみてほしい。
|