エッセー11
はやし浩司
【141】「アユが縄張り争いをしない」・養殖される子どもたち

 岐阜県の長良川。その長良川のアユに異変が起きて、久しい。そのアユを見続けてきた一人の老人は、こう言った。「アユが縄張り争いをしない」と。武儀郡板取村に住むN氏である。

 「最近のアユは水のたまり場で、ウロウロと集団で住んでいる」と。原因というより理由は、養殖。この二〇年間、長良川を泳ぐアユの大半は、稚魚の時代に、琵琶湖周辺の養魚場で育てられたアユだ。体長が数センチになったところで、毎年三〜四月に、長良川に放流される。人工飼育という不自然な飼育環境が、こういうアユを生んだ。しかしこれはアユという魚の話。実はこれと同じ現象が、子どもの世界にも起きている!

 スコップを横取りされても、抗議できない。ブランコの上から砂をかけられても、文句も言えない。ドッジボールをしても、ただ逃げ回るだけ。先生がプリントや給食を配り忘れても、「私の分がない」と言えない。これらは幼稚園児の話だが、中学生とて例外ではない。キャンプ場で、たき火がメラメラと急に燃えあがったとき、「こわい!」と、その場から逃げてきた子どもがいた。小さな虫が机の上をはっただけで、「キャーッ」と声をあげる子どもとなると、今では大半がそうだ。

 子どもというのは、幼いときから、取っ組みあいの喧嘩をしながら、たくましくなる。そういう形で、人間はここまで進化してきた。もしそういうたくましさがなかったら、とっくの昔に人間は絶滅していたはずである。が、そんな基本的なことすら、今、できなくなってきている。核家族化に不自然な非暴力主義。それに家族のカプセル化。カプセル化というのは、自分の家族を厚いカラでおおい、思想的に社会から孤立することをいう。このタイプの家族は、他人の価値観を認めない。あるいは他人に心を許さない。カルト教団の信者のように、その内部だけで、独自の価値観を先鋭化させてしまう。そのためものの考え方が、かたよったり、極端になる。……なりやすい。

 また「いじめ」が問題視される反面、本来人間がもっている闘争心まで否定してしまう。子ども同士の悪ふざけすら、「そら、いじめ!」と、頭からおさえつけてしまう。

 こういう環境の中で、子どもは養殖化される。ウソだと思うなら、一度、子どもたちの遊ぶ風景を観察してみればよい。最近の子どもはみんな、仲がよい。仲がよ過ぎる。砂場でも、それぞれが勝手なことをして遊んでいる。私たちが子どものころには、どんな砂場にもボスがいて、そのボスの許可なしでは、砂場に入れなかった。私自身がボスになることもあった。そしてほかの子どもたちは、そのボスの命令に従って山を作ったり、水を運んでダムを作ったりした。仮にそういう縄張りを荒らすような者が現われたりすれば、私たちは力を合わせて、その者を追い出した。

 平和で、のどかに泳ぎ回るアユ。見方によっては、縄張りを争うアユより、ずっとよい。理想的な社会だ。すばらしい。すべてのアユがそうなれば、「友釣り」という釣り方もなくなる。人間たちの残虐な楽しみの一つを減らすことができる。しかし本当にそれでよいのか。それがアユの本来の姿なのか。その答は、みなさんで考えてみてほしい。
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【142】「親に向かって、何だ、その態度は!」・権威主義の象徴

 権威主義。その象徴が、あのドラマの『水戸黄門』。側近の者が、葵の紋章を見せ、「控えおろう」と一喝すると、皆が、「ははあ」と言って頭をさげる。日本人はそういう場面を見ると、「痛快」と思うかもしれない。が、欧米では通用しない。オーストラリアの友人はこう言った。「もし水戸黄門が、悪玉だったらどうするのか」と。フランス革命以来、あるいはそれ以前から、欧米では、歴史と言えば、権威や権力との闘いをいう。

 この権威主義。家庭に入ると、親子関係そのものを狂わす。Mさん(男性)の家もそうだ。長男夫婦と同居して一五年にもなろうというのに、互いの間に、ほとんど会話がない。別居も何度か考えたが、世間体に縛られてそれもできなかった。Mさんは、こうこぼす。「今の若い者は、先祖を粗末にする」と。Mさんがいう「先祖」というのは、自分自身のことか。一方長男は長男で、「おやじといるだけで、不安になる」と言う。一度、私も間に入って二人の仲を調整しようとしたことがあるが、結局は無駄だった。長男のもっているわだかまりは、想像以上のものだった。問題は、ではなぜ、そうなってしまったかということ。

 そう、Mさんは世間体をたいへん気にする人だった。特に冠婚葬祭については、まったくと言ってよいほど妥協しなかった。しかも派手。長男の結婚式には、町の助役に仲人になってもらった。長女の結婚式には、トラック二台分の嫁入り道具を用意した。そしてことあるごとに、先祖の血筋を自慢した。Mさんの先祖は、昔、その町内の大半を占めるほどの大地主であった。ふつうの会話をしていても、「M家は……」と、「家」をつけた。そしてその勢いを借りて、子どもたちに向かっては、自分の、親としての権威を押しつけた。少しずつだが、しかしそれが積もり積もって、親子の間にミゾを作った。

 もともと権威には根拠がない。でないというのなら、なぜ水戸黄門が偉いのか、それを説明できる人はいるだろうか。あるいはなぜ、皆が頭をさげるのか。またさげなければならないのか。だいたいにおいて、「偉い」ということは、どういうことなのか。

 権威というのは、ほとんどのばあい、相手を問答無用式に黙らせるための道具として使われる。もう少しわかりやすく言えば、人間の上下関係を位置づけるための道具。命令と服従、保護と依存の関係と言ってもよい。そういう関係から、良好な人間関係など生まれるはずがない。権威を振りかざせばかざすほど、人の心は離れる。親子とて例外ではない。権威、つまり「私は親だ」という親意識が強ければ強いほど、どうしても指示は親から子どもへと、一方的なものになる。そのため子どもは心を閉ざす。Mさん親子は、まさにその典型例と言える。「親に向かって、何だ、その態度は!」と怒る、Mさん。しかしそれをそのまま黙って無視する長男。こういうケースでは、親が権威主義を捨てるのが一番よいが、それはできない。権威主義的であること自体が、その人の生きざまになっている。それを否定するということは、自分を否定することになる。

 が、これだけは言える。もしあなたが将来、あなたの子どもと良好な親子関係を築きたいと思っているなら、権威主義は百害あって一利なし。『水戸黄門』をおもしろいと思っている人ほど、あぶない。
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ント はやし浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市 金沢大学法文学部卒 はやし浩司 教育評論家 幼児教育評論家 林浩
司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやしひろし 林ひろし 静岡県 浜松市 幼
児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやし浩司・林浩二(司) 林浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐
阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 Hiroshi Hayashi / 1970 IH student/International House / Melbourne Univ.
【143】「お宅の子どもを、落第させましょう」・学校は人間選別機関?
 
 アメリカでは、先生が、「お宅の子どもを一年、落第させましょう」と言うと、親はそれに喜んで従う。「喜んで」だ。あるいは子どもの勉強がおくれがちになると、親のほうから、「落第させてくれ」と頼みに行くケースも多い。これはウソでも誇張でもない。事実だ。そういうとき親は、「そのほうが、子どものためになる」と判断する。が、この日本では、そうはいかない。先日もある親から、こんな相談があった。何でもその子ども(小二女児)が、担任の先生から、なかよし学級(養護学級)を勧められているというのだ。それで「どうしたらいいか」と。

 日本の教育は、伝統的に人間選別が柱になっている。それを学歴制度や学校神話が、側面から支えてきた。今も、支えている。だから親は「子どもがコースからはずれること」イコール、「落ちこぼれ」ととらえる。しかしこれは親にとっては、恐怖以外、何ものでもない。その相談してきた人も、電話口の向こうでオイオイと泣いていた。

 少し話はそれるが、たまたまテレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込んできた(九九年春)。ある人がニュージーランドの小学校を訪問したときのことである。その小学校では、その年から、手話を教えるようになった。壁にズラリと張られた手話の絵を見ながら、その人が「どうして手話の勉強をするのですか」と聞くと、女性の校長はこう言った。「もうすぐ聴力に障害のある子どもが、(一年生となって)入学してくるからです」と。

 こういう「やさしさ」を、欧米の人は知っている。知っているからこそ、「落第させましょう」と言われても、気にしない。そこで私はここに書いていることを確認するため、浜松市に住んでいるアメリカ人の友人に電話をしてみた。彼は日本へくる前、高校の教師を三〇年間、勤めていた。

 私「日本では、身体に障害のある子どもは、別の施設で教えることになっている。アメリカではどうか?」友「どうして、別の施設に入れなければならないのか」私「アメリカでは、そういう子どもが、入学を希望してきたらどうするか」友「歓迎される」私「歓迎される?」友「もちろん歓迎される」私「知的な障害のある子どもはどうか」友「別のクラスが用意される」私「親や子どもは、そこへ入ることをいやがらないか」友「どうして、いやがらなければならないのか?」と。そう言えば、アメリカでもオーストラリアでも、学校の校舎そのものがすべて、完全なバリアフリー(段差なし)になっている。

 同じ教育といいながら、アメリカと日本では、とらえ方に天と地ほどの開きがある。こういう事実をふまえながら、そのアメリカ人はこう結んだ。「日本の教育はなぜ、そんなにおくれているのか?」と。

 私はその相談してきた人に、「あくまでもお子さんを主体に考えましょう」とだけ言った。それ以上のことも、またそれ以下のことも、私には言えなかった。しかしこれだけはここに書ける。日本の教育が世界の最高水準にあると考えるのは、幻想でしかない。日本の教育は、基本的な部分で、どこか狂っている。それだけのことだ。
writer/essayist/law student/Japan/born in 1947/武義高校 林こうじ はやしこうじ 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ
 金沢大学法文学部卒 教育評論家 ハローワールド(雑誌)・よくできました(教材) スモッカの知恵の木 ジャックと英語の木 (CAI) 
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【144】「家族がバラバラにされて、何が仕事か!」・出世主義VS家族主義
  
 「立派な社会人になれ」「社会で役立つ人になれ」と。日本では出世主義が、教育の柱になっている。しかし欧米では違う。アメリカでもフランスでも、先生は、「よき家庭人になれ」と子どもに教える。「よき市民になれ」と言うときもある。先日、ニュージーランドの友人に確かめたが、ニュージーランドでも、そう言う。オーストラリアでも、そう言う。私は、日本の出世主義に対して、彼らのそれを勝手に、家族主義と呼んでいる。もちろん彼らにそういう主義があるわけではない。彼らにしてみれば、それが常識なのだ。

 日本人はこの出世主義のもと、仕事を第一と考える。子どもでも、「勉強をしている」と言えば、家事の手伝いはすべて免除される。五〇代、六〇代の夫で、家事や炊事を手伝っている男性は、まずいない。仕事がすべてに優先される。よい例が、単身赴任。かつて私のオーストラリアの友人は、こう言った。「家族がバラバラにされて、何が仕事か」と。もう三〇年も前のことである。こうした日本の特異性は、日本に住んでいるとわからない。いや、お隣りの中国を見ればわかる。今、中国では、「立派な国民」教育のもと、徹底した出世主義を子どもたちに植えつけている。先日も北京からきた中学教師の講演を聞いたが、わずか一時間前後の話の中に、この「立派な国民」という言葉が、一〇回以上も出てきた。子どもたちの大多数が、「将来は科学者になって出世したい」と考えているという。

 が、この出世主義は、今、急速に音をたてて崩れ始めている。旧来型の権威や権力が、それだけの威力をもたなくなってきている。一つの例が成人式だ。自治体の長がいくら力んでも、若者たちは見向きもしない。ワイワイと騒いでいる。ほんの三〇年前には、考えられなかった光景だ。私たちが二〇歳のときには、市長が壇上にいるだけで、直立不動の姿勢になったものだ。が、こうした現象と反比例するかのように、家族を大切にするという人がふえている。九九年の春、文部省がした調査でも、四〇%の日本人が、もっとも大切にすべきものとして、「家族」をあげた。同じ年の終わり、中日新聞社がした調査では、四五%。一年足らずの間に、五ポイントもふえたことになる。

 もっとも、こうした傾向を嘆く人も、多い。出世主義を信奉し、人生の大半を、そのために費やしてきた人たちだ。あるいはそういう流れを理解できず、退職したあとも、過去の肩書きや地位にこだわっている人だ。こういう人たちにとっては、出世主義を否定することは、自らの人生を否定することに等しい。だから抵抗する。ふつうの抵抗ではない。狂ったように抵抗する。ある元教授はメールで、こう言ってきた。「暇つぶしにもならないが」と前置きしたあと、「田舎のおばちゃんなら、君の意見をありがたがるだろう。しかし私は君の家族主義を笑う」と。しかしこれは笑うとか笑わないとかいう問題ではない。それが日本の「流れ」、なのだ。

 今でも日本異質論が叫ばれている。日本脅威論も残っている。その理由の第一が、日本人がもつ価値観そのものが、欧米のそれとは異質であることによる。言いかえると、日本が旧来の日本である限り、日本が欧米に迎え入れられることはない。少なくとも出世主義型の教育観は、これからの世界では、通用しない。
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【145】「成績がさがったから、ゲームは禁止!」・子育ては自然体で

 『子育ては自然体で』とは、よく言われる。しかし自然体とは、何か。それがよくわからない。そこで一つのヒントだが、漢方のバイブルと言われる『黄帝内経・素問』には、こうある。これは健康法の奥義だが、しかし子育てにもそのままあてはまる。いわく、「八風(自然)の理によく順応し、世俗の習慣にみずからの趣向を無理なく適応させ、恨み怒りの気持ちはさらにない。行動や服飾もすべて俗世間の人と異なることなく、みずからの崇高性を表面にあらわすこともない。身体的には働きすぎず、過労に陥ることもなく、精神的にも悩みはなく、平静楽観を旨とし、自足を事とする」(上古天真論篇)と。難解な文章だが、これを読みかえると、こうなる。

 まず子育ては、ごくふつうであること。子育てをゆがめる三大主義に、極端主義、スパルタ主義、完ぺき主義がある。極端主義というのは、親が「やる」と決めたら、徹底的にさせ、「やめる」と決めたら、パッとやめさせるようなことをいう。よくあるのは、「成績がさがったから、ゲームは禁止」などと言って、子どもの趣味を奪ってしまうこと。親子の間に大きなミゾをつくることになる。スパルタ主義というのは、暴力や威圧を日常的に繰り返すことをいう。このスパルタ主義は、子どもの心を深くキズつける。また完ぺき主義というのは、何でもかんでも子どもに完ぺきさを求める育て方をいう。子どもの側からみて窮屈な家庭環境が、子どもの心をつぶす。

 次に子育ては、平静楽観を旨とする。いちいち世間の波風に合わせて動揺しない。「私は私」「私の子どもは私の子ども」というように、心のどこかで一線を引く。あなたの子どものできがよくても、また悪くても、そうする。が、これが難しい。親はそのつど、見え、メンツ、世間体。これに振り回される。そして混乱する。

 言いかえると、この三つから解放されれば、子育てにまつわるほとんどの悩みは解消する。要するに子どもへの過剰期待、過関心、過干渉は禁物。ぬか喜びも取り越し苦労もいけない。「平静楽観」というのは、そういう意味だ。やりすぎてもいけない。足りなくてもいけない。必要なことはするが、必要以上にするのもいけない。「自足を事とする」と。実際どんな子どもにも、自ら伸びる力は宿っている。そういう力を信じて、それを引き出す。子育てを一言で言えば、そういうことになる。

 さらに黄帝内経には、こうある。「陰陽の大原理に順応して生活すれば生存可能であり、それに背馳すれば死に、順応すれば太平である」(四気調神大論篇)と。おどろおどろしい文章だが、簡単に言えば、「自然体で子育てをすれば、子育てはうまくいくが、そうでなければ、そうでない」ということになる。子育てもつきつめれば、健康論とどこも違わない。ともに人間が太古の昔から、その目的として、延々と繰り返してきた営みである。不摂生をし、暴飲暴食をすれば、健康は害せられる。精神的に不安定な生活の中で、無理や強制をすれば、子どもの心は害せられる。栄養過多もいけないが、栄養不足もいけない。子どもを愛することは大切なことだが、溺愛はいけない、など。少しこじつけの感じがしないでもないが、健康論にからめて、教育論を考えてみた。
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【146】「オレをこんなオレにしたのは、テメエだ!」・親離れ、子離れ

 子どもは小学三、四年を境に、急速に親離れを始める。しかし親はそれに気づかない。気づかないまま、親意識だけをもち続ける。またそれをもって、親の深い愛情だと誤解する。つまり子離れできない。親子の悲劇はここから始まる。あの芥川龍之介も、「人生の悲劇の第一幕は親子となつたことにはじまつてゐる」(侏儒の言葉)と書いている。

 息子が中学一年生になっても、「うちの子は、早生まれ(三月生まれ)ですから」と言っていた母親がいた。娘(高校生)に、「うす汚い」「不潔」と嫌われながらも、娘の進学を心配していた父親もいた。自らはほしいものも買わず、質素な生活をしながら、「あんなヤツ、大学なんか、やるんじゃなかった」とこぼしていた父親もいた。あるいは息子(中二)に、「クソババア! オレをこんなオレにしたのは、テメエだ」と怒鳴られながら、「ごめんなさい。お母さんが悪かった」と、泣いてあやまっていた母親もいた。

 しかし親子の間に、細くとも一本の糸があれば、まだ救われる。親はその一本の糸に、親子の希望を託す。しかしその糸が切れると、親には、また別の悲劇が始まる。親は「親らしくしたい」という気持ちと、「親らしくできない」という気持ちのはざ間で、葛藤する。これは親にとっては、身をひきちぎられるようなものだ。ある父親はこう言った。「息子(一九歳)が暴走族の一人になったとき、『あいつのことは、もう構いたくない』という思いと、『何とかしなければ』という思いの中で、心がバラバラになっていくのを感じた」と。もう少しズルイ親だと、「縁を切る」という言い方をして、子育てから逃げてしまう。が、きまじめな親ほど、それができない。追いつめられ、袋小路で悩む。苦しむ。

 子どもというのは、親の期待を一枚ずつはぎ取りながら、成長する。中には、最後の一枚まではぎとってしまう子どももいる。年ごとに立派になっていく子どもを見る親は、幸せな人だ。しかしそういう幸運に恵まれる親は、一体、何割いるというのだろうか。大半の親は、年ごとにますます落ちていく(?)子どもを見せつけられながら、重い心を引きずって歩く。「そんな子どもにしたのは、私なんだ」と、自分を責めることもある。

 しかしそれとてもとをただせば、子離れできない親に、問題がある。あの藤子F不二雄の『ドラえもん』にこんなシーンがある(一八巻)。タンポポの種が、タンポポの母親に、「(空を飛ぶのは)やだあ。やだあ」とごねる。それを母親は懸命に説得する。しかし一度子どもが飛び立てば、それは永遠の別れを意味する。タンポポの種が、どこでどのような花を咲かせるか、それはもう母親の知るところではない。しかし母親はこう言って、子どもを送り出す。「勇気をださなきゃ、だめ! みんなにできることがどうしてできないの」と。

 子どもの人生は子どもの人生。あなたの人生があなたの人生であるように、それはもうあなた自身の力が及ばない世界のこと。言いかえると、親は、それにじっと耐えるしかない。たとえあなたの息子が、あなたの夢や希望、名誉や財産、それを食いつぶしたとしても、それに耐えるしかない。外から見ると、どこの親子もうまくいっているように見えるかもしれないが、それこそまさに仮面。子育てに失敗しているのは、あなただけではない。
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【147】「日本の教育はバカげている」・日本の常識、世界の標準?
 
 『釣りバカ日誌』の中で、浜ちゃんとスーさんは、よく魚釣りに行く。見慣れたシーンだが、欧米ではああいうことは、ありえない。たいてい妻を同伴する。向こうでは家族ぐるみの交際がふつうで、夫だけが単独で外で飲み食いしたり、休暇を過ごすということは、まず、ない。そんなことをすれば、それだけで離婚事由になる。

 困るのは『忠臣蔵』。ボスが犯罪を犯して、死刑になった。そこまでは彼らにも理解できる。しかし問題はそのあとだ。彼らはこう質問する。「なぜ家来たちが、相手のボスに復讐をするのか」と。欧米の論理では、「家来たちの職場を台なしにした、自分たちのボスにこそ責任がある」ということになる。しかも「マフィアの縄張り争いなら、いざ知らず、自分や自分の家族に危害を加えられたわけではないのだから、復讐するというのもおかしい」と。

 まだある。あのNHKの大河ドラマだ。日本では、いまだに封建時代の圧制暴君たちが、あたかも英雄のように扱われている。すべての富と権力が、一部の暴君に集中する一方、一般の庶民たちは、極貧の生活を強いられた。もしオーストラリアあたりで、英国総督府時代の暴君を美化したドラマを流そうものなら、それだけで袋叩きにあう。

 要するに国が違えば、ものの考え方も違うということ。教育についてみても、日本では、伝統的に学究的なことを教えるのが、教育ということになっている。欧米では、実用的なことを教えるのが、教育ということになっている。しかもなぜ勉強するかといえば、日本では学歴を身につけるため。欧米では、その道のプロになるため。日本の教育は能率主義。欧米の教育は能力主義。日本では、子どもを学校へ送り出すとき、「先生の話をよく聞くのですよ」と言うが、アメリカ(特にユダヤ系)では、「先生によく質問するのですよ」と言う。日本では、静かで従順な生徒がよい生徒ということになっているが、欧米では、よく発言し、質問する生徒がよい生徒ということになっている。日本では「教え育てる」が教育の基本になっているが、欧米では、educe(エデュケーションの語源)、つまり「引き出す」が基本になっている、などなど。同じ「教育」といっても、その考え方において、日本と欧米では、何かにつけて、天と地ほどの開きがある。私が「日本では、進学率の高い学校が、よい学校ということになっている」と説明したら、友人のオーストラリア人は、「バカげている」と言って笑った。そこで「では、オーストラリアではどういう学校がよい学校か」と質問すると、こう教えてくれた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。チャールズ皇太子も学んだことのある由緒ある学校だが、そこでは、生徒一人一人に合わせて、カリキュラムを学校が組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように、と。そういう学校をよい学校という」と。

 日本の常識は、決して世界の標準ではない。教育とて例外ではない。それを知ってもらいたかったら、あえてここで日本と欧米を比較してみた。 
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【148】「どうせそういうヤツは……」・善悪のバランス感覚

 「核兵器か何かで、人間の半分は死ねばいい。そうすれば地球は、もっと住みやすくなる」と言った男子高校生がいた。「私は未亡人になって、黒いドレスを着てみたい」と言った女子高校生もいた。善悪のバランス感覚がなくなると、そういうことを平気で口にするようになる。バランス感覚というのは、よいことと悪いことを、冷静に判断する能力のことをいう。これがないと、ものの考え方が極端になったり、かたよったりするようになる。

 原因は、極端な甘やかしときびしさ。この二つが同居すると、子どもはバランス感覚をなくす。たとえば祖父母に溺愛される一方、きびしい母親に育てられるなど。あるいは親自身の情緒が不安定で、そのつど親が甘くなったり、きびしくなったりする。子どもの側からみて、とらえどころのない環境は、子どもの精神を不安定にする。荒れた海を小さな船で航海するようなものだ。体を支えるだけで、精一杯。冷静に考えろというほうが無理。I君(小一)の環境も、そんな環境だった。

I君の父親は、ある宗教団体の熱心な信者で、いつも、「ワシは、毎日読経しないようなヤツの話は聞かない。ワシの師は、J先生だ」と言っていた。そして母親には、「学校の教師の言うことなどに、価値はない」と。短気で、いつも大声で怒鳴り散らしていた。一時は暴力団に属していたこともあるという。一方母親は静かで、やさしい人だったが、満たされない心をまぎらわすために、I君を溺愛した。I君は、バランス感覚をなくした。私がI君に、「ブランコで遊んでいたら、そこへA君がきて、そのブランコを横取りしました。あなたはどうしますか」と聞いたときのことである。I君は、「ぶっ飛ばしてやればいい」と。ゾッとするほど、すごみのある声だった。そこで私が、「もう少し別の考え方はないのかな?」と言うと、「どうせそういうヤツは、口で言ってもわからねエ」と。

子どもの中にバランス感覚を養うためには、濃密な親子関係を基本に、心静かな環境で育てる。心というのは、濃密な親子関係があってはじめて育つ。やさしさや思いやりというのは、そこから生まれる。そればかりではない。人間が人間としてもっている、常識もそこから生まれる。たとえばほかの人へのやさしさや思いやりは、ここちよい響きがする。ほかの人をいじめたり、裏切ったりすることは、いやな響きがする。そういうのを常識というが、人間はこの常識のおかげで、過去何十万年もの間、生きてきた。またそういう常識さえ大切にすれば、これからも皆、仲よく生きられる。

「家庭教育」という言葉が、最近よく使われる。しかし家庭教育といっても、何も特別なこととして身構える必要はない。「しつけ」にしても、そうだ。もしすべきことがあるとするなら、子どもにはたっぷりと、自分で考える時間を与えること。そしてこの本の中で何度も書いたように、あとは子どもを「自由」にする。自由というのは、「自らに由る」という意味。自分で考えさせ、自分で結論を出させ、自分で行動させ、そして自分で責任を取らせる。そういう習慣を乳幼児期から心がける。そうすれば子どもは、常識豊かな子どもになる。善悪のバランス感覚のある子どもになる。
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【149】「いろいろやってはみましたが……」・子育てプロセス論

 クルーザーに乗って、海に出る。ないだ海だ。しばらく遊んだあと、デッキの椅子に座って、ビールを飲む。そういうときオーストラリア人は、ふとこう言う。「ヒロシ、ジスイズ・ザ・ライフ(これが人生だ)」と。日本人ならこういうとき、「私は幸せだ」と言いそうだが、彼らはこういうときは、「ハッピー」という言葉は使わない。

 私はここで「ライフ」を「人生」と訳したが、ライフにはもう一つの意味がある。「生命」という意味である。つまり欧米人は人生イコール、生命と考え、その生命感がもっとも充実したときを、人生という。何でもないような言葉だが、こうした見方、つまり人生と生命を一体化したものの考え方は、彼らの生きざまに、大きな影響を与えている。

 少し前だが、こんなことをさかんに言う人がいた。「キリストは、最期は、はりつけになった。その死にざまが、彼の人生を象徴している。つまりキリスト教がまちがっているという証拠だ」と。ある仏教系の宗教団体に属している信者だった。しかし本当にそうか。この私とて、明日、交通事故か何かで、無惨な死に方をするかもしれない。しかし交通事故などというものは、偶然と確率の問題だ。私がそういう死に方をしたところで、私の生き方がまちがっていたということにはならない。

 ここで私は一人の信者の意見を書いたが、多くの日本人は、密教的なものの考え方の影響を受けているから、結果を重視する。先の信者も、「死にぎわの様子で、その人の人生がわかる」と言っていた。つまり少し飛躍するが、人生と生命を分けて考える。あるいは人生の評価と生命の評価を、別々にする。教育の場で、それを考えてみよう。

 ある母親は、結果として自分の息子が、C大学へしか入れなかったことについて、「私は教育に失敗しました」と言った。「いろいろやってはみましたが、みんな無駄でした」とも。あるいは他人の子どもについて、こう言った人もいた。「あの親は子どもが小さいときから教育熱心だったが、たいしたことなかったね」と。

 そうではない。結果はあくまでも結果。大切なのは、そのプロセスだ。つまりその人が、いかに「今」という人生の中で、自分を光り輝かせて生きているかということ、それが大切なのだ。子どもについて言えば、その子どもが「今」という時を、いかに生き生きと生きているかということ。結果はあとからついてくるもの。たとえ結果が不満足なものであったとしても、それまでしてきたことが、否定されるものではない。このケースで考えるなら、A大学であろうがC大学であろうが、そんなことで子どもの評価は決まらない。仮にC大学であっても、彼がそれまでの人生を無駄にしたことにはならない。むしろ勉強しかしない、勉強しかできない、勉強だけの生活をしてきた子どものほうが、よっぽど人生を無駄にしている。たとえそれでA大学に進学できた、としてもだ。

 人生の評価は、「今」という時の中で、いかに光り輝いて、自分の人生を充実させるかによって決まる。繰り返すが、結果(東洋的な思想でいう、人生の結論)は、あくまでも結果。あとからついてくるもの。そんなものは、気にしてはいけない。
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【150】「ぼく、たくろう、ってんだ」・子どもは人の父

 イギリスの詩人ワーズワース(一七七〇〜一八五〇)は、次のように歌っている。

  空に虹を見るとき、私の心ははずむ。
  私が子どものころも、そうだった。
  人となった今も、そうだ。
  願わくば、私は歳をとって、死ぬときもそうでありたい。
  子どもは人の父。
  自然の恵みを受けて、それぞれの日々が、
  そうであることを、私は願う。

 訳は私がつけたが、問題は、「子どもは人の父」という部分の訳である。原文では、「The Child is Father of the Man. 」となっている。この中の「Man」の訳に、私は悩んだ。ここではほかの訳者と同じように「人」と訳したが、どうもニュアンスが合わない。詩の流れからすると、「その人の人格」ということか。つまり私は、「その人の人格は、子ども時代に形成される」と解釈したが、これには二つの意味が含まれる。

 一つは、その人の人格は子ども時代に形成されるから注意せよという意味。もう一つは、人はいくらおとなになっても、その心は結局は、子ども時代に戻るという意味。誤解があるといけないので、はっきりと言っておくが、子どもは確かに未経験で未熟だが、決して、幼稚ではない。子どもの世界は、おとなが考えているより、はるかに広く、純粋で、豊かである。しかも美しい。人はおとなになるにつれて、それを忘れ、そして醜くなっていく。知識や経験という雑音の中で、俗化し、自分を見失っていく。私を幼児教育のとりこにした事件に、こんな事件がある。

 ある日、園児に絵をかかせていたときのことである。一人の子ども(年中男児)が、とてもていねいに絵をかいてくれた。そこで私は、その絵に大きな花丸をかき、その横に、「ごくろうさん」と書き添えた。が、何を思ったか、その子どもはそれを見て、クックッと泣き始めたのである。私はてっきりうれし泣きだろうと思ったが、それにしても大げさである。そこで「どうしたのかな?」と聞きなおすと、その子どもは涙をふきながら、こう話してくれた。「ぼく、ごくろうっていう名前じゃ、ない。たくろう、ってんだ」と。

 もし人が子ども時代の心を忘れたら、それこそ、その人の人生は闇だと、私は思う。もし人が子ども時代の笑いや涙を忘れたら、それこそ、その人の人生は闇だと、私は思う。ワーズワースは子どものころ、空にかかる虹を見て感動した。そしてその同じ虹を見て、子どものころの感動が胸に再びわきおこってくるのを感じた。そこでこう言った。「子どもは人の父」と。私はこの一言に、ワーズワースの、そして幼児教育の心のすべてが、凝縮されているように思う。
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【151】「ヒロシ、許して忘れろ。OK?」・許して忘れる

 人とのトラブルで私が何かを悩んでいると、オーストラリアの友人は、いつも私にこう言った。「ヒロシ、許して忘れろ。OK?」と。英語では「Forgive and Forget」と言う。聖書の中の言葉らしいが、それはともかく、私は長い間、この言葉のもつ意味を、心のどこかで考え続けていたように思う。「フォ・ギブ(許す)」は、「与える・ため」とも訳せる。同じように「フォ・ゲッツ(忘れる)」は、「得る・ため」とも訳せる。「では何を与えるために許し、何を得るために忘れるのか」と。

 ある日のこと。自分の息子のことで思い悩んでいるときのこと。ふとこの言葉が、私の頭の中を横切った。「許して忘れる」と。「どうしようもないではないか。どう転んだところで、お前の子どもはお前の子どもではないか。誰の責任でもない、お前自身の責任ではないか」と。とたん、私はその「何」が、何であるかがわかった。

 あなたのまわりには、あなたに許してもらいたい人が、たくさんいる。あなたが許してやれば、喜ぶ人たちだ。一方、あなたには、許してもらいたい人が、たくさんいる。その人に許してもらえれば、あなたの心が軽くなる人たちだ。つまり人間関係というのは、総じてみれば、(許す人)と(許される人)の関係で成り立っている。そこでもし、互いが互いを許し、そしてそれぞれのいやなことを忘れることができたら、この世の中は何とすばらしい世の中になることか。

 ……と言っても、私のような凡人には、そこまでできない。できないが、自分の子どもに対してなら、できる。私はいつしか、できの悪い息子たちのことで何か思い悩むたびに、この言葉を心の中で念ずるようになった。「許して忘れる」と。つまりその「何」についてだが、私はこう解釈した。「人に愛を与えるために許し、人から愛を得るために忘れる」と。子どもについて言えば、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛を得るために忘れる」と。これは私の勝手な解釈によるものだが、しかし子どもを愛するということは、そういうことではないだろうか。そしてその度量、言いかえると、どこまで子どもを許し、そしてどこまで忘れることができるかによって、親の愛の深さが決まる……。

 もちろん「許して忘れる」といっても、子どもを甘やかせということではない。子どもに好き勝手なことをさせろということでもない。ここでいう「許して忘れる」は、いかにあなたの子どもができが悪く、またあなたの子どもに問題があるとしても、それをあなた自身のこととして、受け入れてしまえということ。「たとえ我が子でも許せない」とか、「まだ何とかなるはずだ」と、あなたが考えている間は、あなたに安穏たる日々はやってこない。一方、あなたの子どももまた、心を開かない。しかしあなたが子どもを許し、そして忘れてしまえば、あなたの子どもも救われるが、あなたも救われる。

 何だかこみいった話をしてしまったようだが、子育てをしていて袋小路に入ってしまったら、この言葉を思い出してみてほしい。「許して忘れる」と。それだけで、あなたはその先に、出口の光を見いだすはずだ。
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【152】「やっと楽になったと思ったら……」・今を生きる子育て論

 英語に、『休息を求めて疲れる』という格言がある。愚かな生き方の代名詞のようにもなっている格言である。「いつか楽になろう、なろうと思ってがんばっているうちに、疲れてしまって、結局は何もできなくなる」という意味だが、この格言は、言外で、「そういう生き方をしてはいけません」と教えている。

 たとえば子どもの教育。幼稚園教育は、小学校へ入るための準備教育と考えている人がいる。同じように、小学校は、中学校へ入るため。中学校は、高校へ入るため。高校は大学へ入るため。そして大学は、よき社会人になるため、と。こうした子育て観、つまり常に「現在」を「未来」のために犠牲にするという生き方は、ここでいう愚かな生き方そのものと言ってもよい。いつまでたっても子どもたちは、自分の人生を、自分のものにすることができない。あるいは社会へ出てからも、そういう生き方が基本になっているから、結局は自分の人生を無駄にしてしまう。「やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた……」と。

 ロビン・ウィリアムズが主演する、『今を生きる』という映画があった。「今という時を、偽らずに生きよう」と教える教師。一方、進学指導中心の学校教育。この二つのはざまで、一人の高校生が自殺に追いこまれるという映画である。この「今を生きる」という生き方が、『休息を求めて疲れる』という生き方の、正反対の位置にある。これは私の勝手な解釈によるもので、異論のある人もいるかもしれない。しかし今、あなたの周囲を見回してみてほしい。あなたの目に映るのは、「今」という現実であって、過去や未来などというものは、どこにもない。あると思うのは、心の中だけ。だったら精一杯、この「今」の中で、自分を輝かせて生きることこそ、大切ではないのか。子どもたちとて同じ。子どもたちにはすばらしい感性がある。しかも純粋で健康だ。そういう子ども時代は子ども時代として、精一杯その時代を、心豊かに生きることこそ、大切ではないのか。

 もちろん私は、未来に向かって努力することまで否定しているのではない。「今を生きる」ということは、享楽的に生きるということではない。しかし同じように努力するといっても、そのつどなすべきことをするという姿勢に変えれば、ものの考え方が一変する。たとえば私は生徒たちには、いつもこう言っている。「今、やるべきことをやろうではないか。それでいい。結果はあとからついてくるもの。学歴や名誉や地位などといったものを、真っ先に追い求めたら、君たちの人生は、見苦しくなる」と。

 同じく英語には、こんな言い方がある。子どもが受験勉強などで苦しんでいると、親たちは子どもに、こう言う。「ティク・イッツ・イージィ(気楽にしなさい)」と。日本では「がんばれ!」と拍車をかけるのがふつうだが、反対に、「そんなにがんばらなくてもいいのよ」と。ごくふつうの日常会話だが、私はこういう会話の中に、欧米と日本の、子育て観の基本的な違いを感ずる。その違いまで理解しないと、『休息を求めて疲れる』の本当の意味がわからないのではないか……と、私は心配する。
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【153】「パパ、ありがとう」・父のうしろ姿

 私の実家は、昔からの自転車屋とはいえ、私が中学生になるころには、斜陽の一途。私の父は、ふだんは静かな人だったが、酒を飲むと人が変わった。二、三日おきに近所の酒屋で酒を飲み、そして暴れた。大声をあげて、ものを投げつけた。そんなわけで私には、つらい毎日だった。プライドはズタズタにされた。友人と一緒に学校から帰ってくるときも、家が近づくと、あれこれと口実を作っては、その友人と別れた。父はよく酒を飲んでフラフラと通りを歩いていた。それを友人に見せることは、私にはできなかった。

 その私も五二歳。一人、二人と息子を送り出し、今は三男が、高校三年生になった。のんきな子どもだ。受験も押し迫っているというのに、友だちを二〇人も呼んで、パーティを開くという。「がんばろう会だ」という。土曜日の午後で、私と女房は、三男のために台所を片づけた。片づけながら、ふと三男にこう聞いた。「お前は、このうちに友だちを呼んでも、恥ずかしくないか」と。すると三男は、「どうして?」と聞いた。理由など言っても、三男には理解できないだろう。私には私なりのわだかまりがある。私は高校生のとき、そういうことをしたくても、できなかった。友だちの家に行っても、いつも肩身の狭い思いをしていた。「今度、はやしの家で集まろう」と言われたら、私は何と答えればよいのだ。父が壊した障子のさんや、ふすまの戸を、どうやって隠せばよいのだ。

 私は父をうらんだ。父は私が三〇歳になる少し前に死んだが、涙は出なかった。母ですら、どこか生き生きとして見えた。ただ姉だけは、さめざめと泣いていた。私にはそれが奇異な感じがした。が、その思いは、私の年齢とともに変わってきた。四〇歳を過ぎるころになると、その当時の父の悲しみや苦しみが、理解できるようになった。商売べたの父。いや、父だって必死だった。近くに大型スーパーができたときも、父は「Jストアよりも安いものもあります」と、どこかしら的はずれな広告を、店先のガラス戸に張りつけていた。「よそで買った自転車でも、パンクの修理をさせていただきます」という広告を張りつけたこともある。しかもそのJストアに自転車を並べていたのが、父の実弟、つまり私の叔父だった。叔父は父とは違って、商売がうまかった。父は口にこそ出さなかったが、よほどくやしかったのだろう。戦争の後遺症もあった。父はますます酒に溺れていった。

 同じ親でありながら、父親は孤独な存在だ。前を向いて走ることだけを求められる。だからうしろが見えない。見えないから、子どもたちの心がわからない。ある日気がついてみたら、うしろには誰もいない。そんなことも多い。ただ私のばあい、孤独の耐え方を知っている。父がそれを教えてくれた。客がいない日は、いつも父は丸い火鉢に身をかがめて、暖をとっていた。あるいは油で汚れた作業台に向かって、黙々と何かを書いていた。そのときの父の気持ちを思いやると、今、私が感じている孤独など、何でもない。

 私と女房は、その夜は家を離れることにした。私たちがいないほうが、三男も気が楽だろう。いそいそと身じたくを整えていると、三男がうしろから、ふとこう言った。「パパ、ありがとう」と。そのとき私はどこかで、死んだ父が、ニコッと笑ったような気がした。
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【154】「もう何がなんだか、わけが……」・あきらめは悟りの境地

 子育てをしていると、「もうダメだ」と、絶望するときがしばしばある。あって当たり前。子育てというのは、そういうもの。親はそうい絶望感をそのつど味わいながら、つまり一つずつ山を乗り越えながら、次の親になっていく。そういう意味で、日常的なトラブルなど、何でもない。進学問題や不登校、引きこもりにしても、その山を乗り越えてみると、何でもない。重い神経症や情緒障害にしても、やはり何でもない。山というのはそういうもの。要は、どのようにして、その山を乗り越えるかということ。

 少し話はそれるが、子どもが山をころげ落ちるとき(?)というのは、次々と悪いことが重なって落ちる。自閉傾向のある子ども(年中女児)がいた。その症状がやっとよくなりかけたときのこと。その子どもはヘルニアの手術を受けることになった。医師が無理に親から引き離したため、それが大きなショックとなってしまった。その子どもは目的もなく、徘徊するようになってしまった。が、その直後、今度は同居していた祖母が急死。葬儀のドタバタで、症状がまた悪化。その母親はこう言った。「もう何がなんだか、わけがわからなくなってしまいました」と。

 山を乗り越えるときは、誰しも、一度は極度の緊張状態になる。それも恐ろしいほどの重圧感である。混乱状態といってもよい。冒頭にあげた絶望感というのがそれだが、そういう状態が一巡すると、……と言うより、限界状況を越えると、親はあきらめの境地に達する。それは不思議なほど、おおらかで、広い世界。すべてを受け入れ、すべてを許す世界。その世界へ入ると、それまでの問題が、「何だ、こんなことだったのか」と思えてくる。ほとんどの人が経験する、子どもの進学問題でそれを考えてみよう。

 多かれ少なかれ日本人は皆、学歴信仰の信者。だからどの人も、子どもの進学問題にはかなり神経質になる。江戸時代以来の職業による身分意識も、残っている。人間や仕事に上下などあるはずもないのに、その呪縛から逃れることができない。だから自分の子どもが下位層(?)へ入っていくというのは、あるいは入っていくかもしれないというのは、親にとっては恐怖以外の何ものでもない。だからたいていの親は、子どもの進学問題に狂奔する。「進学塾のこうこうとした明かりを見ただけで、足元からすくわれるような不安感を覚えます」と言った母親がいた。「息子(中三)のテスト週間になると、お粥しかのどを通りません」と言った母親もいた。私の知っている人の中には、息子が高校受験に失敗したあと、自殺を図った母親だっている!

 が、それもやがて終わる。具体的には、入試も終わり、子どもの「形」が決まったところで終わる。終わったところで、親はしばらくすると、ものすごく静かな世界を迎える。それはまさに「悟りの境地」。つまり親は、山を越え、さらに高い境地に達したことを意味する。そしてその境地から過去を振り返ると、それまでの自分がいかに小さく、狭い世界で右往左往していたかがわかる。あとはこの繰り返し。苦しんでは山を登り、また苦しんでは山を登る。それを繰り返しながら、親は、真の親になる。



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